COLUMN

[HRプロ連載記事] 第3話:異文化理解のために押さえるべきポイントとは

8.連載記事

インドネシアで現地ローカルスタッフの人たちと仕事をすると、すべてが日本で仕事をしていたようにはいかない。言語や文化に違いがあるので当然だ。仕事柄さまざまな方々と話をする中で気づいたのだが、この違いに「ストレスを感じにくい人」と「ストレスを感じやすい人」がいる。これは「適応力」の差だ。もちろん前者のほうが海外で仕事をする上では良いわけだが、時々、後者にも出会う。感覚的には2割くらいしかいないが、この方々は常にイライラしていたり、何かを諦めたりしており、とても「疲弊」している。

インドネシアで出会う日本人は、もともと適応力の高い人が自ら手を挙げたり、選ばれたりしていることが多い。にもかかわらず、新しい文化に適応しきれずに疲弊してしまう人もいるのが現状だ。日本人全体で見ると、適応力に課題のある人の割合は、もっと高いかもしれない。しかし、今後日本人は新しい環境に対する適応力が求められるようになる。自ら日本を出る・出ないは関係なく、ビジネスはどんどん国境を越え、海外の人や会社と仕事をする機会が増えていくからだ。

この適応力は、先天的なものではなく、強化できる力である。今まで様々な組織を見てきたが、適応力の高い組織は、いろんな文化が有機的に刺激しあい、高いパフォーマンス・大きなイノベーションを生み出している。では話を戻して、インドネシアに適応するにはどうすればいいのか、に触れていこう。これが今回のコラムのテーマである。

外国人という立場になって気づいたこと

いろんな方が、「海外に住むと日本をもっと知りたくなった、好きになった」というが、まさに私もそうだった。もちろん、4年住んでいるジャカルタも第二の故郷で大好きな街なのだが、外国人というマイナーな立場になるからこそ、「日本人とは何か」を考える機会が多くなった。無意識に自分の中にあるルーツを探し、感動や感謝をするのだと思う。

そして、自分を含めた日本人とインドネシア人の価値観の違いが浮き彫りになると(逆に「なんだ、まったく一緒だ!」と感じることもたくさんある)、人は前述した2種類、「適応力があり、ストレスを感じにくい人」と、「適応力が不足し、ストレスを感じやすい人」に分かれていく。

ミルトン・ベネットの「異文化感受性発達モデル」という考え方がある。人は違いを感じると「否定」や「防御」をしてしまいがちだが、異文化を理解し「違いとの統合」に向かっていくことが重要、という考えだ。「違いとの統合」とは、様々な文化の中でも、まるで自分自身の文化の中にいるように対応し、周りの人と強い信頼関係を築いていくような状態をいう。

インドネシアにおいてこの状態を得る為には、まず「自分たちとインドネシア人は何が違うのか」を知っておくことが大切である。この問いに対する具体的なヒントを得るべく、今回は、Toray Industries Indonesiaの黒田顧問の話を聞きに行った。

インドネシアを語る日本人の第一人者、黒田顧問

黒田顧問は、インドネシアを語る日本人として、第一に名前が挙げられる方だ。御年82歳。愛媛県のご出身で、伊予弁が残る優しい話し方をされる。非常に物腰柔らかく、お話を聞いていると、とても和やかな気持ちになるが、身長180cmを超える立派な身体で、時折ギラッと眼鏡の奥で眼が光る。実は顧問は柔道7段の武道の達人。1955年に東レに入社した後も、仕事の半分は京都府警の機動隊で柔道の修行をされていた。そして実は、インドネシアで柔道を広めた立役者でもある。インドネシアのいまの警察・軍隊の幹部は、ほとんどが黒田顧問の教え子だ。

日本とインドネシアの関係を深められたことで、両国の政界・財界とのつながりも強い。黒田顧問が初めてインドネシアに降り立ったのは1971年で、何と47年間もインドネシアの変化を見てこられた。「最初にわしが来たときはなーんにもなかった」とおっしゃる。今とは比べ物にならないほどに「日本とインドネシアの違い」を考えざるを得なかっただろう。

大きな違いの中で築かれた、インドネシア人との強い信頼関係

(稲垣) 最初にインドネシアに来られた時は、1971年とお聞きしています。当時、日本とどのような違いを感じられましたか?

(黒田) 来た当初は、生活スタイルのあまりの違いに驚きました。ほとんどの人が裸足で、体には麻袋のようなものだけを巻いていました。日本からの派遣者たちは、この貧しい国を何とかして日本のような立派な工業国にして、経済的に豊かにしようという崇高な使命感を持って、この暑い国で病気と闘いながら頑張っていたのですが、どうしてもインドネシア人とは波長が合わない。「お祈りばかりして積極的に働かない」というような不満を持っていました。

反対に、インドネシア人の側にも、「そこまでして工業を起こして経済的に豊かにならなくてもいまでも幸せだ。インドネシアには豊かで広大な土地もあり、急いで工業化する必要はないのではないか。どうせ外資の規制緩和をしても経済的に豊かになるのは華僑だけではないか」という声が出始めました。

そして1974年の田中角栄首相のインドネシア訪問をきっかけに、マラリ事件(反日暴動)がおこります。トヨタの販売店や日本製品などが放火され、日系企業は甚大な被害を受けました。これは大変だということで、私は必死になって工場の防衛対策を考えようとしました。インドネシア人に対してすごく警戒心を持ったんです。

しかしこの時、ローカルスタッフが「ミスター黒田、心配することはありません。私たちの工場は私たちが守ります」と言って率先して、工場の防衛に協力してくれました。私は感動するとともに、非常に心強く思い、このことをきっかけに、自分の人生をインドネシアに賭けよう、と思ったんです。


本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=1445&page=1

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