COLUMN
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」~You shall love your neighbor as yourself.~
キリスト教徒でなくても知られている聖書の有名な言葉ですね。私は今回の取材で、改めてこの言葉を聞き、その奥深さに唸ってしまいました。そもそも「自分を愛する」という言葉に違和感を覚えます。人はそんなに自分を愛しているのだろうか? 確かに、病気になって死にたくはないし幸せになりたいと願っているものの、「自分という人間を愛せているか?」と自問すると私は即答できません。自分の性格の気に入っている部分や誇らしいと思える過去もありますが、嫌な部分やあまり思い出したくない過去もある。自分を愛するということは、良い部分だけではなく悪い部分も100%受け入れることで、それは非常に難しいと思います。しかし聖書のこの言葉は、「人は自分を愛している」ということを前提としています。さらに、その「愛」を自分の隣人(自分以外の他人)にも向けよ、と説いています。大変深く重い教えです。
ということで今回は、キリスト教に関するインタビューです。キリスト教徒ではこのような愛を「アガペー(無条件の愛)」というようです。人事コンサルティング企業を経営されているニシリアスさん(通称・マットさん)は敬虔なプロテスタントのクリスチャン。彼の視点からキリスト教をひもといてみました。
INDEX
(稲垣) まずは、マットさんのご経歴を教えていただけますでしょうか。
(マット) アメリカのワイオミング州出身で、1991年に交換留学で日本に来ました。成田高校という、成田山(新勝寺)が建てた学校に通いましたが、1軒のホストファミリーのお父さんはお寺のご住職でした。キリスト教徒・プロテスタントの私がそのような環境にホームステイをするという経験も面白かったです(笑)。交換留学が終わってアメリカに帰り、大学進学などを経て2000年に再来日し、語学学校に就職しました。その後、日本人の奥さんと結婚して、現在も日本に住んでいます。数年間学校に勤めたあと、ベンチャー会社に転職し、さらに数年後にこれらの経験を元に自分の会社を設立しました。大学で教えたり、企業向けのトレーニングをおこなったりするかたわら、知識を深めるために大学院にも通いました。
(稲垣) ご両親もキリスト教だったのですか?
(マット) 基本的には父も母もキリスト教でしたが、父と母は教会に行かないので、私はだいたい祖父母と一緒に行っていました。小さい頃から毎週日曜日に教会へ行って、小学校3年生の時にイエス様のことを受けいれたいと自分で決め、深く信じることになりました。洗礼を受けたのは15才くらいだったと思います。
(稲垣) 自分で決めるものなんですね。どのようなきっかけで信じることになったのですか?
(マット) いわゆる「Vacation Bible School」がきっかけです。アメリカでは、夏休みの間に1週間くらい毎日教会に行って、いろいろなアクティビティや教えを体験する文化があるんです。教会では礼拝の最後に、よく「イエス様のことを受けいれようと思っている方がいたら、あとで声をかけてください」と言われます。私は、この時のVacation Bible Schoolで手を挙げました。
(稲垣) 同じキリスト教徒でも“受けいれる”時を自分で選択するという段階があるんですね。そういえば、私が住んでいるインドネシアはイスラム教徒が多いですが、会社の女性が、ある日突然「ヒジャブ(イスラム教徒の女性が頭や身体を覆う布)」を被ってきました。ヒジャブを被るタイミングは自分で決めて、決めたら一生被り続けるのだといいます。キリスト教と同じように深く信じるタイミングがあるということでしょうか。
ところで、イエス様の教えを受けいれる前と受けいれた後では、何か変わるのですか? イスラム教のように何かを身に着けるとか、お祈りのやり方が変わるなど、何か目に見える変化があるのでしょうか。
(マット) 身につけるものやルールが追加されるといったことはありません。外見ではなく、気の持ちようが変わるんです。内面では、明るく穏やかになるという変化があるかもしれないですが。
(稲垣) それは、何か自分や世の中に対する「悟り」や「気づき」のようなモノを得るということでしょうか?
(マット) キリスト教に対して、より深く理解をしていくと思います。稲垣さんは、そもそも人間は、良い存在だと思いますか? 悪い存在だと思いますか?
(稲垣) キリスト教の教えでは、「性悪説」の立場をとると聞いたことがあります。サタンの化身(蛇)に騙されたアダムとイブが、神が食べてはならないと固く禁じられていた禁断の果実を食べ、罪を背負った人間となったと。
(マット) そうです。そして2人は楽園を追及され、その遺伝子が現在も人間に引き継がれていると考えられているので、人間は生まれながらに罪を背負っているのです。ここでいう罪は、いわゆる法的な犯罪の「Crime」ではなく、心の中の罪「Sin(原罪)」です。多くの人は犯罪をおかしませんが、誰かを憎んだり、恨んだり、妬んだり、という「Sin」の罪は犯していますよね。
聖書には「You shall love your neighbor as yourself.」という言葉があります。日本語だと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ですね。これがキリスト教の根本的な考え方の1つです。まずは、Sinを犯している自分と向き合い、受けいれ、そして自分を愛する。つまり、自分の良い部分だけではなく悪い部分にも目をそらさず、無条件の愛でそれらすべてを受け止める。さらに、その「無条件の愛」を、隣人、つまりすべての人に向けるということです。キリスト教の教えは「愛」にもとづいているんです。
(稲垣) 自分のすべてを受けいれ、愛するということ自体が大変難しいのに、すべての人を愛するというのはとてつもなく難しいことなんだろうと思います。自分とは主義主張がまったく違う相手がいた場合、どのように受けとめればいいのか。例えば、敬虔なクリスチャンであるマットさんは、キリスト教以外の宗教を信じる方々を見て、彼らを否定したくなったり、許せない部分を感じたりしないのでしょうか。
(マット) それはしません。もちろんキリスト教が正しいと信じていますが、他宗教の人を否定はしません。仮に彼らと宗教の話になった場合、私は自分の信じていることは言いますが、相手が正しい・正しくないという判断はしません。人間の心の中には神様の形をしている「空洞」が入っているんです。人はそれをどうしてもいっぱいにしたくて、自分の意見を押し通したり、お金を儲けて利益を得たり、綺麗な人と付き合ったり、家族との時間を大切にしたりと、「空洞」を満たすためにいろいろなことをするわけですが、それでは決して満たされない。これは、神様の形をしていても「空洞」なので、いっぱいにできるのは神様だけなんです。つまり、自分にできることを精一杯やるが、それができているかどうかを決めるのは神様だけなんです。
これまで4回にわたって、イスラム教・仏教・キリスト教を信仰する方々と対談してきたが、その考えを100%理解し、共感するのは難しいと改めて感じる。何千年も世界中の人々に受け継がれてきた「宗教」を数時間のインタビューで私が理解することなど到底できないのは当然だ。しかし、それぞれの教徒が何を大事にしているかということはわかるようになってきたと思う。
改めてこの「宗教特集」の目的に立ち返ると、これからより多様性のある社会になっていく日本において、「宗教への知識と受容力」が大切であるということだ。ある意味、固定の宗教というラベリングがされていない日本は、さまざまな考え方を受けいれる度量がある、可能性を秘めた国なのかもしれない。まずは知ることから始めたい。来月はいよいよ宗教特集最後の「ヒンドゥー教」だ。
取材協力:Matthew Nisselius(マシュー・ニシリアス)さん
ニシリアス・コンサルティング株式会社 代表取締役。アメリカ、ワイオミング州出身。
2000年に来日し、ベルリッツ・ジャパンで講師として勤務したのち、本社法人営業部に起用され企業向け研修プログラムや教材を作成する業務に携わるようになる。同社退職後は、ベンチャー会社に転職し、オンラインラーニングの開発サポートに従事。2008年、ニシリアス・コンサルティング株式会社を設立し、グローバル人材の養成を目的とするコンサルタントを開始。大手企業を中心に幅広い分野において、異文化コミュニケーション・ビジネススキル・英語学習法などの研修を提供するかたわら、自らも指導に従事、現在に至る。指導歴は20年以上。2011年、テンプル大学TESOL(英語教授法)修士課程修了。2008年以降、慶應義塾大学大学院、東海大学、東京理科大学、明治大学などで講師としても活躍している。
本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
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