COLUMN

2020.04.30

[HRプロ連載記事]第13話:「universal self」としての「私」こそ、宗教としての気づき 宗教リテラシー特集(3)仏教【前編】

連載記事

実家暮らしだった高校生まで、私は毎朝チーンとお鈴(りん)を鳴らし、手を合わせて「行ってきます」とつぶやいて家を出ていた。お盆にはお坊さんを招いて、家族全員でお経を唱えた。今でも帰省すると、まずはお線香をあげて手を合わせる。仏教に対して嫌悪感は一切ない。しかし、仏教を深く知ろうとは思わなかったし、今でも仏教徒という自己認識もない。手塚治虫の『ブッダ』は何度も読んだが、動機は仏教への興味というよりも、手塚治虫が描く世界観と、釈迦の生き方や歴史への興味だった。今回の宗教特集を通して、なぜ身近にあるはずの仏教に興味を持たなかったのか、理由がわかった。1つ目は「抽象的でわかりにくいから」。2つ目は「理解する必要がない」と思っていたからだ。

今回、対談相手は、1つ目の問題を解決してくれる人をこだわって探した。私の個人的な問題だとはわかってはいるが、どうも仏教の本を読んでもわかりにくくてつい眠たくなってしまう……。そのときに何気なく見ていた「NewsPicks」の落合陽一さんのコーナー「WEEKLY OCHIAI」で「禅・マインドフルネス」の対談に出ておられたドイツ人のお坊さん、安泰寺住職・ネルケ無方さんの話がとてもわかりやすかった。すぐさまオファーを出したら快諾していただけた。「ハイコンテクスト文化(はっきりとは伝えずにお互いに相手の意図を察しあう文化)」の日本人ではなく、「ローコンテクスト文化(はっきりと伝えあう文化)」の西欧の方からロジカルに仏教を教えてもらおう、という腹積もりだったが、ネルケさんとの対談を通じて仏教への理解を深められたとともに、私が仏教に興味がなかった2つ目の理由である「理解する必要がないから」ということに対しても、新たな視点を持つことができた。3時間近い対談になり文字量が多いため、今回の仏教特集は前後編の2回に分けてお送りする。

日本人の宗教観とは

(稲垣)まずは、ネルケさんのご経歴を教えていただけますでしょうか。

(ネルケ) 1968年、当時の西ベルリンに生まれました。16歳のときに坐禅と出会って、その時点でゆくゆくは日本に渡って禅僧になりたいという夢を持ったのですが、一旦、ベルリン自由大学で日本語学、哲学を勉強してから、1990年に京都大学に留学生として来日しました。そのとき初めて安泰寺のことを知って、半年間そこでお世話になっています。ドイツの大学を卒業してから25歳のとき、1993年に正式に出家得度させてもらって、8年間の修行生活に入りました。2001年までは安泰寺で修行、2001年に師匠から一人前の僧侶として認めてもらい、大阪城公園で「ホームレス坐禅」を行っていましたが、2002年に師匠が急逝なさったため安泰寺に戻って、9代目住職として2020年まで務めました。

(稲垣) 「ホームレス坐禅」ですか?

(ネルケ) 日本にはお寺こそたくさんありますが、自分と向き合う仏教がないというか、自分で仏教を実践してみたいと思っても、そういう機会はあまりないんですよね。急に思い立ってお寺に行って、住職に坐禅したいと頼んでも、「うちではやっていません」とか、「隣のお寺だったら月に1回ぐらい坐禅会がありますよ」とか言われてしまう。しかし坐禅会といっても、近所の方が日曜日の午後にお茶を飲みながらおしゃべりをするための集いであって、「自分の生き方や働き方を考えるヒントとして仏教を学ぶ」という場はとても少ない。欧米ならキリスト教はもちろん、チベット仏教、ヴィパッサナー(瞑想法)、禅、マインドフルネス、ヨガなど、学ぶ場所はたくさんあります。

日本でも坐禅ができる場所を作ろうと思ったのです。しかし、山奥では人が来られないので、大阪市内でやってみようと。当時は、あちらこちらの河川敷や公園でホームレスがテントを張っていたので、私も家賃を削るために大阪城公園で生活しながら、坐禅会をやっていました。

(稲垣) 坐禅会のようなイベントとしては、日本では最近「マインドフルネス」が注目を浴びていますね。「WEEKLY OCHIAI」では、この禅とマインドフルネスの違いに関して活発な議論がなされていました。

(ネルケ) 私の立場では、日本で「マインドフルネス」が流行っていることに驚いており、正直なところ、厚みがないと感じています。なぜ、元来日本にある「禅」を、わざわざカタカナにして、ライトバージョンにするのか。それを日本人が「新しい」と言うのか。もともと日本には仏教という宗教があり、マインドフルネスの元祖となる禅が何百年も受け継がれているのに。

宗教にこだわりのない民族として、日本人は特殊だといわれますが、それはなぜなのでしょうか。それは、「宗教」という明確なラベルを貼らなくても、社会が安定しているからです。しかし、実情は、決して無宗教ではない。日本には、あらゆるところに宗教が存在しています。例えば、9時に約束があったら5分前には集まる。日本以外の国の人々だったら「5分前に来る必要はないのでは?」と考えますが、日本人は5分前集合を守る。また、食べる前には、なんとなくでも「いただきます」と言う。そして、夜道を渡るとき、右を見ても左を見ても、車はどこからも来ていないのに赤信号では止まる。私が住んでいる田舎の地域では、電車は1時間に1本しか来ません。夜中には電車は通らないのに踏切の前では必ず一旦停止をする。これを宗教的と呼ばなければなんだろう、私には思えます。しかし、当の日本人は、それらの習慣を宗教的だとは思ってないんですね。「共同体のルールは絶対守らなくちゃいけない」という日本型の生活スタイルは、恐らく若い頃、特に小・中学生の時点で徹底的に叩き込まれていると思います。

(稲垣) いわゆる、躾(しつけ)ですね。

(ネルケ) そうです。欧米ですと、それぞれの家庭で躾がされています。ドイツでは朝早く学校へ行って昼間に帰宅し、躾は家でおこなわれます。大人になっても、「自分の人生は仕事が終わったあとから始まる」という感覚です。日本はそうではなく、同じ地域に住んでいる子供は1年生から6年生まで、全員同じ躾を受けて、中学校に入ったらまたそこで、髪型やスカートの長さなども決められる。私にもいま高校1年生と中学3年生の子供がいます。私が「金曜日の夜だから一緒にビールを飲もう」とすすめても、「絶対だめ」、「アルコールは20歳になってから」と断られます。また、私が「先生の言うことなんか聞かなくていいよ」と言っても、「先生の言うことが間違っているはずはない」と子供は返す。

「理由はないけれど、絶対守らなくちゃいけない」という考えに固執してしまうのは、良くも悪くも宗教的ですね。「世間体」という決まりを守るよう洗脳されているようにも見えます。欧米にも世間体がないわけではないけれど、「たかが世間体」というスタンスであって、もっとも重要なものではない。いざというときは自分の考えの方が大事。自分より大切な存在があるとすれば神様だけです。

(稲垣) なるほど。欧米では、世間体よりも自分、自分よりも神様が大切だけれど、日本人は神様よりも自分、そして自分よりも世間体が大切だと。正反対ですね。

(ネルケ) それから、強いていえば日本人にとって大切なのはご先祖様。その風潮も今は少し弱くなっていますが、神仏を重視しなくても、ご先祖様は大切にします。そもそも神仏とご先祖様を分けへだてなく敬うものだと考えているいのが、日本人の感覚だと思いますね。仏壇を開けたら何があるか。ご先祖様のご位牌があるわけです。「ご先祖様の命を受け継いで今の自分が生きている」という気持ちを、日本人は欧米人より強く持っていると思いますね。

欧米人に「ご先祖様と神様のどちらが大切か」と聞くと、ほとんどが「神様だ」と言うでしょう。日本人だったら、そもそもご先祖様は仏や神と同様に敬うべきという感覚ですから、その質問自体、意図がわからないですよね。要するに、ご先祖様たちはみな、仏や神のいる場所にいる。みんなつながっているわけですね。「日本人ならば、どこかでつながっている。だったら日本人という共同体として守るべきことを守ろう」という暗黙の了解がある。したがって、宗教はいらないともいえるし、その了解こそ日本人の共有する宗教だともいえると思うんですね。

トマトでもなくカボチャでもなく、キュウリのように育ってほしい

(稲垣) ネルケさんのご意見ですと「日本人はそもそも宗教性の強い国民である」ということですが、外国の方から見て、日本人の課題はなんでしょうか。

(ネルケ) お寺で弟子を育成するときに、私はよく「キュウリのように育ちなさい」と言っています。安泰寺では、1本の麻ひもをぶら下げて、その下に、春にキュウリの苗を植えつけます。そうすると、このキュウリは麻ひもを自らつかんで、まっすぐ上に伸びるんです。都会の家庭菜園でもわりと簡単に作れます。自らひもをつかんで、まっすぐ、シュッと上に伸びる。このキュウリは「個々人」であり、1本のひもは仏教でいえば「仏の教え」に見立てることができます。真実や、人間として守らなければいけないルールを自らつかみ、それに沿って育ってほしいというのが、師匠の私の願いです。

ところが、日本人の弟子を見ていると、キュウリよりもトマトが多いんです。トマトもキュウリと同じ時期に種を撒いて、夏に実るんですけれども、その間はまず頑丈な支柱を立てて、何日おきかにしっかりと結んで、屋根を作って雨から守るという手間をかけないと、病気になったり倒れたりする。支柱に沿って伸びるように紐でしっかりと結ぶというのは、「学校で教育される」という意味だと思います。小学校でも、幼稚園でも「みんなのことを考えなさい」と言われますね。みんなに合わせて、場合によっては自分の意見を控えるというのは、日本人からしたら常識ですね。それは素晴らしく治安のよい、平和な社会をもたらしているけれども、主体性を問われるときや、お前はどう考えているかと言われたときに、その場で黙ってしまう。ですから、キュウリのように自分でつかんだものに沿ってまっすぐ伸びるという働きは、伝統的な昭和の教育からは出てこない。

逆に欧米人に多いのは、トマトでもキュウリでもなくてカボチャです。最初の双葉が出た時点ではまだキュウリにそっくりですけれども、そこいら中に蔓を伸ばして「俺が、俺が!」と主張ばかりをする。あの1本のひもを無視して、下手をしたら隣の野菜まで枯らしてしまう。他人の宗教を認められない。本来は同じ神様を信じているはずなのに、一神教徒同士でも絶えず喧嘩してしまう。カボチャたちは、主体性があるといえなくもないけれども、相手の主張を認めることも大切です。だから、日本人はもうそろそろトマトを卒業しなければならないけれど、欧米の方がいいからといってカボチャになる必要はない。その両方のいい点をとった「キュウリになりなさい」と私は言うのです。

平成生まれの若い日本人はとても可能性があると思います。これからキュウリになる可能性はあるし、それをカボチャの欧米人に教えることもできると思います。昭和生まれの人たちは何かにつけて「GDP、GDP!」といまだに言うけれども、これからはGDPだけじゃないんじゃないかということにも、若い日本人は多分気づいていると思います。インドネシアでもタイでもベトナムでも、GDPと関係ない生き方をして、ある意味では日本人より明るく楽しく生きている。日本は、この30年間でGDPが減り続けたからといって、全然卑下することはありません。小さいころから世界中の情報に接している若い世代の日本人は、人生において大事なものを学んでいる可能性がありますよ。

宗教対立はなぜ起こるのか

(稲垣) 今回、いろいろな宗教を深く信じる方々にインタビューをしています。幸運にも私がインタビューさせていただいた方は、それぞれの宗教の本質を追及されており、ネルケさんをはじめ、素晴らしい人格者ばかりで、改めて信仰をもつことの豊かさを実感しています。しかし、なぜそんな素晴らしい信仰をきっかけに争いが起こってしまうのでしょうか。

(ネルケ) 仏教にもいろいろなとらえ方がありますが、私が考える仏教という視点からですと、一神教も多宗教も間違ってはいません。真実はひとつ。「今、このありのまま」ということです。簡単にいえば「ありのままのこれ」。今ここに現われていることを、普段は自分の色眼鏡を通してしか見ていないけれども、その色眼鏡を取ったとき、つまり、自分の損得勘定や勝ち負けとは関係なく眺めたときに見えるものが、「現実」かつ「真実」です。ところが、ほとんどの人はその意味を理解しようとする前に、「今、このありのまま」が阿弥陀さんの話になったり、サンタクロースの話になったり、真言宗なら大日さん、日蓮宗なら妙法蓮華経の話になったりして、そこに名前や顔がついてしまうんですね。そうすると理解しやすくなるのは確かだと思います。「善行をしていれば阿弥陀さんが救ってくれる」、「いい子には、クリスマスにサンタさんがプレゼントを持って来てくれる」、「死んだら最後の審判を経て、地獄か天国が待っている」といったように、「正しくすれば神様が絶対助けてくれる」といったお話の方が理解しやすい点はいいのです。けれども、本来なら名前のつけようのない「今、このありのまま」に名前がついてしまうことによって、「あなたが信じる神様は、私の信じる神様と名前が違うじゃないか!」という事態が起きてしまうんですね。ラベルが違うからという理由で、相手が信じている真実を間違いだと否定してしまう。本当はラベルなんていらないんです。

仏教の場合も、阿弥陀さん、お釈迦様、大日如来など、複数の如来様が登場しますが、本当はいらないのかもしれません。ただ方便として、さまざまな如来様を中心にしたいろいろな物語がある。信者たちはそれらの物語を自分の信仰のよりどころとしていますが、それはあくまで、理解しやすいように作り上げられた「よりどころ」でしかない。「じゃあ、何を本当のよりどころとすべきなのか」というと、仏教的に、それは「自己」です。その「自己」とは何かというと、「あなた」に対しての「私」ではなく、いってみれば出会うものすべてとしての「私」。「You and me」では割り切れない「universal self」。「そもそも私がここにいなければ世界はない」という考え方です。ちょっと神秘的な話かもしれませんが、でも、どういうわけか今ここに天地いっぱいの私がいる。私の世界の中に、このネルケ無方と稲垣隆司というラベルがついた2つの存在があるんだけれども、それ以前に、天地いっぱいの「私」というもうひとつの存在がある。これこそ、宗教的な気づきです。

生まれてきたときは、恐らくみんなその感覚の中で生きていると思うんですね。つまり「出会うものすべてが私」。ところが2~3歳になると、実はお母さんと自分は、違う、別々の存在であることに気づく。「ぼく」という一人称の言葉を使うことによって、こちら側を指し、「お母さん」は向こう側の登場人物になってしまう。続いて、妹や弟が生まれれば、これまで主役だった自分は世界の中心ではなくなる。急に、お母さんは妹や弟のことばかりを可愛がって、「おかあちゃん、おかあちゃん」と叫んでも、「あなたはもう、お兄ちゃんでしょう」と言われる。それは誰にとっても、大きなショックですね。「私は世界の中心ではなかった。私は世界のすべてではない」と感じます。ところが、誰でも自分という映画の主人公でありたい。

たとえば、今ここお腹が空いている自分がいるとしましょう。そのとき、世界の中心では、自分が「お腹が空いている」のであって、たとえ妹が同じように空腹であっても、それは自分にはわからない。お母さんに「お腹が空いた」と訴えたら、「今、妹にお乳をあげてるでしょう!」と言われた。しかし、そう言われても、自分だってお腹が空いている。この自分の感覚だけを追っていると、利己主義者になる。だから、幼いころから「自分だけじゃないんだ」という気持ちをもつよう叩き込まれるのですが、それでもやっぱり「自分が1番」という気持ちも出る。そこで、それ以降はゲームをやっていくんです。お母さんから1番に愛されたい。妹と自分、お兄さんと自分では、どちらが優先されているかを比較したい。学校に入学した後は、クラス20人のうちで自分は上から何番目かが気にかかる。成長して思春期になると、今度は異性にモテたい。モテるためにはどうしたらいいか。髪型を変えてみたりファッションにこだわってみたり、自分の価値を上げようとする。さらに、就職して仕事を始めると、今度はどうやって出世するかというゲームになります。まさに1番になりたい「ゲーム」の連続なのです。

【後編へ続く】

取材協力:ネルケ無方(ねるけむほう)さん
1959年、奈良生まれ。大阪外国語大学イスパニア語科卒。総合商社にて入社以来、30年にわたり、海外不動産案件に従事。83年よりインドネシア(ジャカルタ)に駐在。ジャカルタの中心地でのオフィスビル・商業施設の開発を担当。89年には、「MM2100工業団地」開発に立ち上げから携わる。96年より、フィリピンにても「リマ工業団地」開発を立ち上げる。2003年以降、総合商社退職後の現在もMM2100開発・運営会社社長として、企業誘致と、投資環境や労使関係の改善に取り組む。2012年、工業団地内に職業専門高校を設立し、即戦力となる人材育成にも注力。2006年イスラム教に入信。MM2100にモスク建設に関わる。2019年、メッカに巡礼(ハッジ)している。


本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=2069

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