COLUMN
『ハリー・ポッター』シリーズは、言わずと知れた世界的大ヒットファンタジー小説。J.K.ローリング氏が描く世界観は、誰しもが幼い頃に描いていた「魔法の世界」にどっぷりと浸らせてくれる。そこに登場する“ヴォルデモート卿”は、史上もっとも強力な闇の魔法使い。ハリー・ポッターは勇敢に立ち向かうが闇の力は強大で恐ろしい。命を奪う魔法さえ使いこなす……。
さて、先日こんなことを聞いた。人を病気にさせたり死に至らしめたりする「黒魔術」を規制する刑法があるらしい。これはハリー・ポッターの小説の中の話ではない。経済発展著しい現在のインドネシアにおける現実の話である。
INDEX
本題に入る前に、もう少しインドネシアの黒魔術について書きたい。私の肌感覚だと、8~9割くらいのインドネシア人は黒魔術を信じている。信じているというか、至極当たり前の事実として受けとめている。黒魔術は相手に呪いをかけ不幸に陥れる魔術であるため、人々にとっては恐怖の対象だ。私はこの4年間で1度だけ黒魔術にかかった(らしい)人を見たことがある。ガタッ!と音がしたので振り返ると、人が倒れて、呻きもがいていた。“てんかん”の発作のようにも見えたが、周りの人は「黒魔術だ!黒魔術だ!」と口々に騒ぎながら、慎重かつ神妙な面持ちで介抱していた。(しばらくたつとその人は意識を回復し、落ち着きを取り戻した)
逆に、“白魔術”というものもある。黒魔術にかけられた人を元の状態に戻したり、大事な式典の日に晴天を確保したりすることができるらしい。当然、白魔術師は“良い魔術師”なので、会社も普通に社員として雇用している。「一体何を言っているんだ?」という声が聞こえてきそうだが、これがインドネシアなのだ。我々日本人には理解しがたいことだが、インドネシアでは多くの方が常識としてとらえているため、上記のような法律も成立してしまう。
むかし、「日本の常識は世界の非常識」というフレーズを聞いたことがある。私も2014年に初めてインドネシアに来た時、自分の常識が通じず、ストレスを感じることが多かった。無意識のうちに「自分(≒日本)の常識が正しい。彼らが間違っている。」と思いこんでいた節があったのだろう。4年の間にいろいろ経験し、いまそのストレスは軽減したと思う。自分の常識すべてを押しつけようとは思わないし、すべて彼らに合わせようとも思わない。私が成長したのは、そうした“常識の線引き”がうっすら見えてきて、あらゆる状況において、その都度、どのようにすればよいコミュニケーションをとれるかを考えるようになったからかもしれない。
ここインドネシアでは、私は外国人だ。それをもっとはっきり認識するためにも、インドネシアの常識を知って、自分の常識との線引きをきちんとするべきである。そこで、「法は倫理の最低限度」と言われるように、まずは彼らの常識や倫理観が反映された法律をしっかりと押さえておくことが大事だと思うようになった。
このような流れで、今回はインドネシアにおける法律のプロである町田先生を訪ねた。町田先生はジャカルタの現地法律事務所、ROSETINI & PARTNERS(西村あさひ法律事務所と提携)に駐在している。人と組織に関わる労働関連の法律を中心に話を伺った。少し難しい話もあるが、インドネシア進出の上で、誰もがぶつかる壁となるであろう法律を押さえておきたい。
―― インドネシアに労働関連の法律はどんなものがありますか?
(町田) 主なところでは労働法、労働組合法ですが、その他にも細かい基礎規則がたくさんあります。日本以上に労働者保護に厚い内容になっているため、企業にとって厳しい面があるのは確かです。
―― 企業にとってどのような面が厳しいですか?
(町田) 例えば2012年、正社員としての雇用を促すために、業務の外部委託や派遣労働者の受け入れが厳しく制限されました(※1)。またその時期には、労働組合から正社員化の要求が強力に行われており、この規則を根拠として労働当局から日系企業に対しても、従業員の正社員化が要請されました。契約社員が許可されるのは、例えば新商品の開発プロジェクトに関わる3カ月間だけとか、多忙になる年末のみ事務作業員を雇う時などで、それ以外では基本的に正社員雇用が義務づけられています。会社としては契約社員を増やして固定費をコントロールしたいところですが、そうはいかない。日系企業は法律を順守して、それを機に正社員雇用に変えたところが多かったように思います。
―― 一度正社員雇用をすると、従業員に問題があっても解雇することが難しいと聞きました。
(町田) そうなんです。解雇のルールは労働法で定められています。例えば無断欠席が続いたり、不正をする従業員がいたりした場合でも、簡単には解雇できません。ルールとして、3回目の警告書を出しても改善されず、4回目に同じことをしたら解雇事由になります。なお、各警告書の有効期間は6カ月間ですので、最後の警告書が出されてから6カ月間警告書が発行されない場合は、次に違反行為があった場合も1回目の警告書が発行されることになります。ただ、従業員にも主張する権利があるので、折り合わないと労働裁判所にいきます。会社は裁判中も従業員に給料を払わなくてはならないので、お金も時間も大きな負担になります。
(※1) 労働移住大臣規程2012年第19号に記載
―― 最低賃金の上昇率が高いですね。
(町田) はい。6~7年前だとジャカルタ内でも最低賃金は月1万円台でしたが、いまは倍近くの3万円台です。アジアでもかなり高い上昇率です。ここ数年は少し落ち着いてきて、10%代前半に収まってきています。
―― ストライキやデモが行われることもあると聞きました。
(町田) 労使間の話し合いが進展しない場合はストライキを起こされることもあります。ストライキによって、1~2カ月工場の稼働が停止した日系企業もあります。通常、ストライキは、時間・場所などを7日前までに会社や労働当局に伝える必要がありますが、そのような手続きは守られないことが多く、大半は条件を満たしていない違法ストライキです。ですが、違法だからといって、ただ封じ込めればいいというものではありません。会社側は慎重な対応が求められます。デモも気をつけなければなりません。最近は少なくなってきましたが、数年前には激しいデモが数多くありました。
▼ジャカルタのデモの様子(日系企業のデモではありません)・バリケードの写真
―― 日本ではなじみが薄い、気をつけなくてはならない法律はありますか?
(町田) まず、外国人は人事労務を担当する役職に就けないことになっています。インドネシア人しか人事労務に関連する書類にサインしてはいけないのです。違反していると、最悪は強制退去です。
他にも、病欠は医師の診断書が出れば何日でも公傷扱いになることや、退職金の支払いが労働法で義務づけられていることも、日本ではなじみが薄いといえるでしょうか。また、退職金についてはかなり手厚いルールになっており、基準を下回ると違反になります。さらにこれは、労働法関連とは関係ないですが、黒魔術に関する規定が刑法等(※2)で言及されていたりもしますので、自分たちの常識を当てはめようとするのではなく、この国独自の考えを知ることが大事だと思います。
(※2)
・刑法545条:生計の手段として占いを行う者は禁固又は罰金。
・刑法546条:自然を超越した力を持つものとしてお守りや護符を所有、販売、購入した者は禁固又は罰金。
・刑法547条:法廷で証人がお守りや護符を身に着けていた場合は禁固又は罰金。
・改正刑法案271条:他人を病気、死亡、心身障害に陥らせる超自然力を有すると宣伝する者は禁固又は罰金。
―― 日系企業・日本人がこの国で活躍するために気をつけるべきことは何でしょうか? 先生のご意見やアドバイスをお願いします。
(町田) インドネシアに限ったことではありませんが、外国で事業を行うことはリスクがあるということをまず認識しておくべきです。問題が起きた場合、外国人である我々にできる手段は限られています。インドネシアは親日的な国と言われていますが、その言葉を鵜呑みにしてはいけません。確かに、インドネシアの独立戦争を助けた日本兵に感謝してくれていたり、J-popや日本のアニメが大好きな若者がいたり、日本に好意を持ってくれている方々はたくさんいます。ですが、歴史や人の感情はそんなに単純ではありません。いろいろな事実や意見のある人がいることを知るべきです。ただ、法律も慣習も、まだまだ未発達な部分はありながら、インドネシア人は根本的に“人がいい方”が多いと思います。当たり前のことかもしれませんが、お互いを尊重しあって信頼関係を作っていけば、従業員も愛着を持って働いてくれると思います。
―― 町田先生からは一般的な法律論だけでなく、外国で働く日本人の心構えともいえる、大切なことを教えていただいたように思う。
町田先生がおっしゃっていた独立戦争に参加した日本兵27名は、カリバタ英雄墓地という場所に埋葬されている。私はインドネシアにきて間もない頃に、ここを訪れた。日本人だけでなく独立戦争で戦績をあげたすべての方々が埋葬されているため、かなり大きな墓地で、私ははじめ、どこに日本人が埋葬されているのかわからず途方に暮れていた。すると、掃除をしているインドネシア人のおじさんから「オランジュパン(日本人)?」と聞かれ、ウンと頷くと、日本人が眠るお墓に案内してもらえた。当時私はインドネシア語がさっぱり理解できなかったが、この時のおじさんの温かい笑顔が印象的だった。
後日、この経験をあるインドネシア人の友人に伝えた。「インドネシアと日本は強い信頼関係があるんだな」と。しかしなぜか彼は複雑な表情をしていた。後からわかったことだが、彼はオランダ側(インドネシアは独立前、オランダ統治下にあった)についていた元王族の子孫であった。そのため、彼自身は日本が大好きだが、「おじいちゃん・おばあちゃんの代は日本にあまりいい思いを持っていない」ということだった。
このような繊細な議論は度々経験がある。西パプアで裸族たちの家に泊まった夜、暗闇の中で彼らと歴史の話になった時は、お互い白熱した議論となった。これはまた、機会があれば書こうと思う。いずれにしても、黒魔術の話しかり、労働法の話しかり、自分の常識を振りかざさず、しっかりした情報を集められるよう、今後もいろいろな人と話をしようと思う。
過去は変えられないが未来は自分たちで創ることができる。いまを熱く生きて、日本とインドネシアをもっといい関係にしていきたい。
▼カリバタ英雄墓地にある日本人兵のお墓
取材協力者:
町田憲昭(まちだ のりあき)さん
日本法弁護士。東京大学法学部卒業。2003年より西村あさひ法律事務所所属。2010年よりジャカルタの現地法律事務所に駐在し、合弁組成、企業買収、労務問題、不祥事対応など企業法全般についてアドバイスを提供している。
※2018年3月29日、インドネシアでの解雇のルールに関して追記しました
本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=1428&page=1