COLUMN

[HRプロ連載記事]第22話:頑張ればいいことがある!――聴覚障がいアスリート・岡部祐介氏のダイバーシティマネジメント

8.連載記事

今回の対談相手の岡部祐介さんは、聴覚障がい者であり日本を代表するトップアスリートである。2016年の「スタラ・ザゴラ世界ろう陸上選手権」の4×400メートルリレー決勝2位で日本史上初の銀メダルを獲得されている。知り合ったきっかけは、2020年の1月に友人のお好み焼き店で出会い、意気投合して語り合ったことだった。手話が使えない私は、携帯画面に文字を打ちながらの「静かな」会話であったが、岡部さんの生き方、人となりに大変感銘を受け、改めて対談をさせていただいた。

※対談はライフネット生命保険オフィスにて行い、写真背景にあるバルーンの「41」は、保有契約41万件(対談当時)を表しているそうです。

生まれた時から耳が聞こえなかった岡部さんはずっと「無音の世界」に生きているわけで、彼は日々、多様性あふれる世の中に適応していかなければならない。得意の運動でも、かけっこになるとスタート音が聞こえないので、人が走り出したのを確認してからスタートを切るから、どうしても勝てない。いろいろと悔しい思いがあって、工夫し、適応しながら乗り越えていった。陸上の世界に飛び込み、「恩人」と出会って才能を開花させ、日本を代表するアスリートとなった。その過程で尋常ではない努力を積み重ねた岡部さんは、「頑張ればいいことがある」と素敵な笑顔で語りかける。

これほど、「頑張ればいいことがある」という言葉に重みを感じたことはない。岡部さんの世の中に適応していく生き方には、ダイバーシティマネジメントのヒントがたくさん隠されていた。

悔しい思いをした少年時代

稲垣:当社のグローバル事業は、外国籍人材の異文化適応力を測ったり、教育したり、外国籍人材を受け入れる人材(主に日本人)の異文化受容力測ったり教育したりするソリューションを開発しています。この異文化適応や受容の能力は、「Cultural Intelligence(CQ)」というのですが、島国で育った日本人は海外の人たちと比較してCQが高くないのが現状です。しかし、これから日本にはどんどん外国の方が増え、自分とは異なった価値観をもつ人が入ってきます。さらには、ジェネレーションやジェンダーなど、いろんな「違い」を受け入れるCQが必要だと思っています。

私の考えでは、耳や目が不自由な方と聴者も文化や価値観が違うのではないでしょうか。今日は失礼な質問もあるかもしれませんが、岡部さんにご自身の体験談の中から、さまざまな価値観・文化的バックボーンをもつ人達をどのように受け入れ、共存していくか、というヒントを教えていただきたいと思っています。

岡部:わかりました。おっしゃる通り「デフ(聴覚障がい者)」と聴者とは、文化が異なるところがあります。例えば、デフは外国人と同じように母語が日本語ではありません。我々の母語は「手話」です。よって、日本語は第二言語なんですね。つまり、本や文字を読む場合は、第二言語を使っているということです。

稲垣:なるほど、そう言われればそうですね。多くのデフの方は、言語を習得する時からバイリンガルなんですね。簡単に岡部さんの自己紹介をしていただけますでしょうか。

岡部:1987年、秋田県生まれの33歳です。「両側感音性難聴」という障がいがあって、生まれつき耳が聞こえません。中学時代に陸上と出会い、2012年の「トロント 世界ろう陸上選手権」で、400メートル準決勝進出、4×400メートルリレー決勝3位銅メダル獲得。2016年 「スタラ・ザゴラ 世界ろう陸上選手権」では、4×400メートルリレー決勝2位で日本史上初の銀メダルを獲得しました。同年にライフネット生命に入社し、当社初のアスリート社員として、陸上競技と総務を業務としています。

稲垣:すごいアスリート経歴ですね。耳が聞こえないのは生まれながらにして、ということですが……。

岡部:はい。母の話では、僕の名前を呼んでも振り向かなかったと。僕にとっては聞こえない世界が当たり前でした。昔の補聴器はちょっと大きくてロボットのような感じで、すごく嫌だったんですよね。ほかの子供達から「宇宙人みたい」と言われたこともあります。シーンとした世界の中から、その、ロボットみたいな大きな箱型の補聴器をつけて、初めて音を聞いた時には、飛行機のエンジン音のレベル(120デシベル)でやっと聞こえるぐらいだったので、音の種類や、音の有無はわかるけれども、どんな内容かまではわかりませんでした。

そういう時には視覚を使って確認をします。しかし困難なことは多かったです。例えば自転車で細い道を進んでいる時に後ろから車が来ても、クラクションは当然聞こえません。その時に、クラクションを鳴らしているのにどかない図々しい奴だと誤解されて怒られたりとか、「耳が不自由です」という仕草をしても、「補聴器をしているんだから、聞こえるんでしょう」と言われたりすることがあります。確かに補聴器で補うことができる人もいますが、みんながみんな、そういうわけではない。いろいろな種類・程度の難聴の人がいるし、レベル、デシベルの違いによって聞こえ方が違う。このことを、こういった取材や講演の場で話して、皆さんに理解を深めていただきたいと思っています。

稲垣:小さい頃もたくさんご苦労があったでしょうね。

岡部:かけっこでは、スタートのピストル音が聞こえないので友達が走り出したのを確認して、自分もスタートするしかありません。そうすると、どうしても結果を出すのは難しいですよね。どんなに頑張っても1位になれなくて、もどかしさを抱えていました。そして、どんどん消極的になっていって、控えめになったり引っ込み思案になったりしていました。友達同士の話もよくわからないまま、うんうんと頷いてその場をやり過ごして。人前では笑顔でいますが、裏では笑っていませんでした。

「鬼コーチ」だった恩師との出会い

稲垣:自分が変わるきっかけは何だったでしょうか?

岡部:中学1年生までは一般の学校に通っていたのですが、小学校までの友達は中学に入るとバラバラになるので、新しい人とゼロから関係を作っていかないといけない。先生の言葉も口の動きを見て理解しなきゃいけない。例えば、英語や音楽は、非常に苦しかったですね。人間関係もコミュニケーションが難しくて。我慢の限界になって、中2の時に秋田市のろう学校に転校しました。小学校の間は、背が高いこともあってバスケットボールをやっていたんです。けれども、ろう学校には部活動が卓球と陸上と美術部の3つしかなくて。僕はなぜか陸上にピンと来て、入部することになりました。そこで石垣徹先生という「鬼コーチ」に出会いました(笑)。非常にビシビシ鍛えられたというか、しごかれたというか。その時はすごく苦しくて、泣いてしまったこともあったんですけれども、その愛の鞭というか、「愛情ある教え」のおかげで今があると思っています。

稲垣:「人生の恩人」というような方でしょうか。

岡部:そうだと思っています。先生には、時折、障がい者の国体などの大会で挨拶に行くようにしています。入部したばかりの時は、先生の指導は厳しかったですし、本当につらかった。毎日毎日、自分ばかり怒られて。練習メニューもすごくきつくて。僕は障がい者ですから、もうやめたほうがいいかな、とマイナスなことばかりを考えていました。

稲垣:耳が不自由な人に慣れてない人間からすると、どのように接したらいいんだろう、という戸惑いがあって遠慮してしまいがちだと思うので、その石垣先生が厳しく接したというのはすごいなと感じます。

岡部:当時の僕としては、ひどいなと思っていました。毎日毎日「やめてやる!」って、ずっと思っていたほどですね。父に、学校に電話をして「部活、やめます」って言ってほしいとお願いしたことがあるぐらいなんですよ。でも両親は「頑張って、いいことあるから頑張って」と言われて。家族はどんなに苦しくても、何があっても、いつもサポートしてくれました。何度もやめようと思ったけれど、一生懸命、ビリからやっていきました。

そして、初めて中3の時に参加した東北地区聾学校体育大会で、新記録で優勝したんです。でも、実はその時でも先生には怒られると思ったんです。それくらい怖かったんです。そうしたら、先生はいつもは鬼のような顔だったのに、その時初めて笑顔でやって来て、握手をしてくれて、すごく喜んでくれたんです。そこで初めて、「頑張ればいいことがあるんだ」と実感しました。あの時の「頑張ればいいことがある」っていう実感は、今でも思い出せる。それがずっと心の支えというか、何があっても苦しいことがあっても諦めないという気持ちにつながっていると思います。

先生が厳しくすることには意味があった。もし僕が諦めたら何も進まないし、どうにもできないまま、同じままだったと思うけれども、それを乗り越えて一歩進んだことで成功体験を積み、厳しいメニューもこなせるようになった。そして、モチベーションにつながっていって、自分を信じることができるようになりました。それまでは、「僕は障がい者だから無理だ」とはじめから諦めてしまったり、自分だけが怒られているのは先生が悪いと思ったりしていました。先生は鬼だと思っていたんです。でも、実際に練習して乗り越えて、その結果、自分を振り返ったら、先生が悪いのではなかった。聴覚障がい者は耳からの情報が一切入らないので、そういう意味では視野も狭くなると思うんです。この経験をもとに、視野がどんどん広がって、「人が厳しくすることにも意味があるんじゃないか」と考えられるようになったんですね。

稲垣:当時、石垣先生は50代後半なので、お元気だったでしょうね(笑)。

岡部:はい。それはもうパワフルでしたよ! 先生は陸上だけでなく、マナーや真面目さに対しての指導もしてくれました。今、自分が真面目すぎる性格になったのは、石垣先生のおかげでもありますね(笑)。

稲垣:石垣先生は、聴者とデフの人を区別していないですよね。「叱ること」ってすごくパワーがいる。そのパワーの源は「愛情」ですよね。叱るという行動によって、愛情のパワーをかけることで、対等に接していたように感じました。

岡部:今でこそ「パワハラ」などと言われてしまうかもしれませんが、石垣先生にはいつも、「きちんと最後まで、諦めないで頑張ろうと思えないんだったら、もうやめろ」と言われていました。厳しい言葉をかけられてつらい時もありましたが、家族もいつでも支えてくれたし、頑張って、努力をして、練習して、技術を磨いてやっていって、ひとつずつ壁を乗り越えた。それは間違いではなかったし、頑張ってよかったと思います。もし甘い先生だったら、デフリンピックを目指してなかったと思うんですよね。石垣先生のおかげで、僕はここまで来られたのだと思います。

それから、自分で言うのはおこがましいんですが、僕は努力家だと思うんです(笑)。勉強にしても、スポーツにしても、口話にしても、努力して覚えていって、性格も積極的になってきて、そして今の自分がいるんだと思います。

 

ダイバーシティマネジメントとは「理解力」である

稲垣:聴者とデフを比較すると、単純の数的に分けると、前者がメジャーで後者はマイナーな立場とされると思います。日本という国に当てはめると、同じ比較構図が「日本人と外国人」というカテゴライズとなり、数の少ない日本在住の外国人が日本で頑張っている。そういうマイナーな立場の外国人の方に対してアドバイスをいただけますか。

岡部:おっしゃる通り、聴者のほうが人数は多く、デフは少ない。多くの方は、声で話をしますから、人数的には圧倒されてしまう。しかし、その中に1人2人友達ができて、何か理解してくれて、一緒にやっていくうちに、手助けをしてくれる人も出てくるようになると思います。たったひとり、孤独でいるっていうのはやっぱり無理なので、1人でも2人でも理解してくれている人を見つけられたら、それをきっかけに頑張ることもできる。

そして、自分自身で諦めないで続けるとか、頑張るとかいう「気持ち」が大事だと思います。例えばコミュニケーションをとるときに、相手は僕が聞こえないことを知らない場合もあるじゃないですか。そんなときは、むしろ積極的に、「僕、耳が聞こえないんですけれども筆談でお願いできますか?」と、自ら向き合っていきます。そこからいろいろ、輪が広がっていきますよね。相手がわかってくれないと不満に思うだけじゃなくて、自らわかってもらいにいく「努力をする」。僕と同じようにデフで、小さい時に発音もすごく頑張って、すごく綺麗にお話ができる人もいます。「自分のスタイルをきちんと持つ」こと、「自分のありたい姿を自ら作っていくこと」ということが大切だと思います。

稲垣:岡部さんの「ありたい姿」っていうのはどのようなものですか?

岡部:今は、デフの子供達に希望や夢を与えられるような人間になりたいと思っています。デフの子供達が、例えば陸上をやっている僕の姿を見て、岡部に憧れて陸上の世界に入ったよ、なんていうことがあったら、非常にうれしいです。もちろん、今は会社のサポートを受けながら自分の大切なこと、できることをやっていくけれども、そして会社の中でも、「聞こえない」ことについての理解も広めていって、デフの子供達が「自分も頑張ればこういう人に、岡部のような人になれるんだ」と、自分のこれからの人生を諦めない人になってほしい。人気漫画の『スラムダンク』に、「諦めたら、そこで試合終了だよ」という監督の言葉があるじゃないですか。実際に、僕は諦めたら終わりだったな、という体感を何度もしています。

稲垣さんと偶然お会いした三軒茶屋のお好み焼き屋「とこしえ」にも、入ろうかどうしようかなと迷ったことがあります。お客さんは、皆さん聞こえる人ばかりだから。店主の永島さんは、カウンターで何回か会っているうちに理解してくれて。恥ずかしながら、友達は少ないかもしれないけれども、そこからいろんな人間関係を作りたいという気持ちも自分の中にはありますしね。まずは、そういった葛藤の中で、勇気を持って一歩踏み出ことが、いろいろな人付き合いにもつながるし、今日のインタビューにもつながりました。

「一歩踏み出す勇気」を持つことが大事なのかな。「聞こえないから自らやめる」というのではなく、聞こえないなら、「聞こえない」と相手に伝えて理解してもらって、筆談して、話してもらうことが大切なのだと思います。

稲垣:すごくいい話ですね。今はマイナーな立場の人達に対するアドバイスをもらいましたが、もう1つ聞きたいことがあります。今度は、メジャーな立場、聴者もしくは日本人について。石垣先生はメジャーな立場だけどもマイナーな立場の岡部さんの力をすごく引き出したわけですが、こういうメジャー側の人間、日本人側もしくは聴者側がやるべきことや考え方について、アドバイスをもらえますか?

岡部:「ダイバーシティマネジメント」というものは、僕は「理解力」だと思うんです。これは、失礼な例ですが、「僕は聞こえないんです」と言うと、「そう」と言って、それで会話が終わってしまうことも多い。そういう方もいらっしゃるのは事実なんですが、デフの立場を理解して手伝おうという気持ちを、少しでも持ってもらえると嬉しいですね。難しいとは思うけれども、同じ人間同士だからこそ、例えば聞こえないって言われたときに、聞こえないってどういうことなのかを、理解しようとしてほしい。耳が聞こえないことや、手話に、ちょっとでも興味を持ってほしいと思います。

僕の場合は、デフリンピックに参加したおかげで、「とこしえ」店主の永島さんは、僕のことを理解してくれて応援してくれていて、そして応援してくれる人を増やしてくれました。紹介してもらっただけで終わり、という人もいたけれども、稲垣さんは興味を持ってくださって、その時すごくいっぱい筆談してくださったじゃないですか。

稲垣:携帯で、静かに熱い会話をしましたね(笑)。

岡部:たくさん時間を使って申し訳ない、と思ったけれども、実はすごくうれしかったんです。そういったことが自分にはとっても大事です。自分から「お願いできますか?」と頼むこともあるけれども、自分からは言いにくいこともある。稲垣さんは、その時に気がついて筆談をしてくださったから、僕すごくうれしかったんですよ。人に興味を持ってもらえるのは非常にうれしいことです。「聞こえない」ことに関心を持ってくれるだけでもうれしいし、デフリンピックに興味を持ってくれるとうれしい。メジャーな立場の人には、マイナーな立場の人に「興味を持つ」ということを、まずはしてもらいたいと思っています。

稲垣:岡部さんは、もちろんすごく苦労されていると思いますし、僕には計り知れない努力をされていると思うので、言葉にすると語弊があるのかもしれないですが、僕は、デフもひとつの特徴だと思っています。耳が聞こえない、目が見えない、外国人で日本語がわからない、イスラム教で豚肉は食べられない、などなど。人にはいろんな特徴があって、自分がまだ知らない「特徴」を知ることはすごく面白い。僕自身もインドネシアに移住したときは、インドネシア語はおろか英語も話せない「外国人」という立場でしたが、自らさまざまなところに飛び込んで、世界観を広げていくことが楽しかった。自分の知らない世界や人を知ることは楽しいですね。

岡部:まさに、そういう意味で障がい者とか、外国人とか、関係なく「人に興味を持つ」人が増えてくれたらいいですよね。

 

岡部さんの夢

稲垣:最後に、岡部さんはどんな夢、これからの目標をもっているか教えていただけますか? アスリートとしてもそうだし、仕事の世界でも、もしくはプライベートでもなんでもいいです。

岡部:まずは先ほども言いましたが、デフの子供達に希望と夢を与えたい。岡部に憧れて陸上に入ったよって言ってほしいし、陸上に入らないまでも、「僕を見て頑張ったらこうなれるんだ」という希望の存在になりたい。有名になるっていう意味ではなくて、そう思ってくれたらうれしいです。

アスリートとしては、2021年12月にブラジルでデフリンピックが行われる予定です。怪我や年齢的なこともあって、最近の記録は満足いく結果ではないのですが、5月に選考会がありますので、デフリンピックの日本代表に選ばれることを今1番の目標として活動しています。実は、僕は30歳になった時に引退しようと思っていたんです。ただ、4×400メートルリレーで5位だったので、どうしてもリベンジしたいっていう気持ちがすごく強くて、「もう今年が最後かもしれない」という気持ちで挑んで、デフリンピックの選手として選考会に出る、選ばれることを1番の目標にしています。

写真:吉田直人

会社については、陸上ができる環境、仕事と陸上の両立が実現できる環境として、2016年ライフネット生命保険に入社しました。デスクワークで運動不足になりがちな社員向けに、室内でできる簡単なトレーニングを「岡部体操」として教えてみたり、手話部を立ち上げて教えたり。あとは、ランニング部という部活動の部長として、会社のみんなと仲良く進めていきたい、という気持ちもあります。

いつか陸上をやめる日が来ても、一般の社員として頑張り続けていきたい。スキルアップしたいし、ビジネスの能力も高めたい。そう思って、今、すごく研鑽を積みながら頑張っています。まだまだ未熟者だけれども、岡部は岡部らしく、陸上の世界だけじゃなくてビジネスの世界でも頑張って、両方とも高めていきたいと思っています。

稲垣:素晴らしい目標ですね。

岡部:最後に。母は、耳の聞こえない子供が生まれた時すごくショックだったんですね。「私の耳と交換したい」と言ったことがあるほど。僕が陸上に入って、いい結果を出したことで、母も報われました。Facebookを見て、母も家族もすごく喜んで、悲しむ様子がなくなったんですね。今頑張ることが両親への恩返しです。僕以外はみんな聞こえる家族ですが、僕がこの世界で頑張っているので、すごく喜んでくれています。「ありがとう」という言葉を家族に、耳を交換したいと言った母にも、父にも、姉にも伝えたい。

僕が陸上の世界に入って頑張っているから、家族も泣き顔や辛い顔からうれしい顔に変わった。僕はそれがうれしい。聴者と同じように育ててくれたから、そして「一緒に頑張る」と考えてくれたから、自分としては、「聞こえる/聞こえない」という区別なく育つことができた。つまり、ほかの人に対しても違いを受け止められる人になったのかなと思っています。いろいろ応援してくれる方、周りの方々には、僕が陸上の選手をやめたら終わりではなくて、僕がたとえやめたとしても、人間関係は続けていってほしいし、続けていってくださる方が応援してくださると思います。

 

対談を終えて

私は非常に感情が動きやすい性格だが、普段はあまりそれを表に出さないようにしている。しかし今回は違った。私には2歳の息子がいるのだが、岡部さんのご両親やご本人の立場を自分に置き換えて考えてみると、何度も感情がこみあげて、涙が止まらなかった。

岡部さんは、本当に笑顔が優しく素敵な人だ。苦労して、努力して、結果をつかみとっている人だから、笑顔に屈託がないし、感謝の言葉に曇りを感じない。素直に心に響くのだ。マイナーな立場/メジャーな立場という事も実は関係がなくて、人が人に興味を持ち、勇気をもって一歩を踏み出せば世界は広がる。そして、実力をつけ、結果を出すには「諦めずに頑張ること」が大事。とてもシンプルだけれど、大切なことを教えてもらった対談だった。

そして、岡部さんのデフリンピック出場を応援したい。頑張れ岡部! 頑張れニッポン!

取材協力:岡部祐介(おかべ ゆうすけ)さん
1987年生まれ、秋田県由利本荘市出身。陸上競技(400メートル)で、日本代表としてデフリンピックに2回出場経験あり。聴覚障がい者向けの唯一の国立大学・筑波技術大学を卒業後、大手電機メーカー勤務を経て、2016年5月よりライフネット生命保険株式会社に勤務。2021年のデフリンピックでのメダル獲得を目指して日々練習に励みながら、聴覚障がい者に対する理解を促すための講演や取材対応など、幅広い活動を行っている。

本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=2298

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