COLUMN

[HRプロ連載記事]第16話:宗教の枠に収まらない人類の哲学 宗教リテラシー特集(5)ヒンドゥー法

8.連載記事

いよいよ「宗教特集」も最後のヒンドゥー教になった。ヒンドゥーは宗教というよりも生き方であるため、「ヒンドゥー法」と呼ぶべきという考え方があるという。よってこのコラムでは「ヒンドゥー法」と記載する。
今回の「宗教特集」に登場した各宗教の信者数は、20億人のキリスト教、16億人のイスラム教、4億人の仏教で、なんとヒンドゥー法の信者数は、一説には11億人と仏教よりも多い(東京堂出版『インドを知る事典』より)。ヒンドゥー法はインドとその周辺でしか流行していないにもかかわらず、である。さらに、三大宗教で一番歴史があるとされる仏教は紀元前5世紀にはじまるが、ヒンドゥー法はインダス文明の土着信仰にバラモン教が入りこんで紀元前10世紀に誕生したともいわれており、歴史の長さもその比ではない。歴史の長さもあり、ヒンドゥー法を理解するのはとても難しい。前述の通り、そもそもヒンドゥー法は、インドの社会制度・文化・風習などが総合されたもので、信者の方にいわせれば、宗教という枠に収まらない人類の哲学、生き方そのものなのだ。

実は世界中に広がっていた宗教

今回も素晴らしいゲストに対談相手になっていただき、ヒンドゥー法をひもといていきたい。インド出身で江戸川区議会議員の「よぎさん」こと、プラニク・ヨゲンドラさんだ。ヒンドゥー法の敬虔な信者である。

(稲垣)  インド出身の区議会議員ということで、とてもインパクトのあるご経歴ですが、簡単にプロフィールを教えてください。

(よぎ)  私は1977年にインド西部で生まれました。プネー州立大学から国際・労務経済の修士号と同時に情報技術と日本語の学位を取得しました。以降、国立経営大学で国際経営を学びました。日本には、90年代の後半に2回、国費留学生として来日し、2001年から日本のIT企業や日系銀行に勤務しています。2019年3月に楽天銀行の企画本部副本部長に就任しましたが、同年4月に江戸川区議会議員選挙に出馬し、初当選しました。生計のためにIT企業や銀行の顧問の仕事もおこなっています。

(稲垣)  すごいですね。インド出身者で初の日本の区議会議員ということで、その話もたっぷりうかがいたいところなのですが、今回は「ヒンドゥー法」について教えていただきたいと思います。インド人の8割がヒンドゥー法信者といわれており、仏教徒はほとんどいないと聞きます。仏教はインドで生まれたはずなのに、なぜ今は信者が少ないのでしょうか。

(よぎ)  それは、ヒンドゥーには他の宗教にあるような「宗教独特の難しさ」がないからでしょう。ヒンドゥー法というのは、宗教というよりも、生活の知恵とか、道理、道徳、生きるうえでの知恵なんです。ヒンドゥー法にはたくさんの神話もあれば、聖典、「ヴェーダ」といった学問文書(この中に「アーユルヴェーダ」といった医学が含まれる)、「ウパニシャッド」といった奥義書、「ヨーガ」といった行法、「カーマスートラ」という性愛書のようなものもあります。とても奥深く、ヒンドゥー法というのは生活に根差しています。

(稲垣)  ヒンドゥー法の歴史はとても古いですね。

(よぎ)  そうですね。そもそもインド人は、「インドには紀元前1万年くらいから、きちんとした文明があった」と信じています。世界では「歴史」ではなく「神話」だとされていますが、紀元前8000年頃、ラーマという王様の時代があったといわれており、それにちなんだ地名やお寺、森が存在します。ラーマが、カンボジアやインドネシアへ行ったとか、そこの人たちの力を集めてスリランカの王と戦ったとか。その話の中に出てくる人名や場所は、現在でも存在しています。数年前に、インドネシアで発掘がおこなわれた際にも古いお寺がたくさん出てきて、世界遺産になっていますね。

(稲垣)  インドネシアのプランパナン寺院ですね! 4年前に行きました! 9世紀のヒンドゥー法寺院ですね。

(よぎ)  そうです。そのあたりには、インドネシア人でありながらも、「ラーマ」とか「シータ(ラーマの妻の名前)」とか、ヒンドゥー法にちなんだ名前の方がたくさんいます。カンボジアやタイにも、そのような名前の人が多くいますね。タイでは、インドと同じような祭りもおこなわれています。この大きなインド大陸、もしくはインド半大陸は、昔からそのようにつながっていたんです。

例えば、「ガネーシャ(知恵学問を司る象面の神様)」の隣に白い「クリシュナ」という神様がいますが、彼は「ヴィシュヌ」という神様の化身といわれています。クリシュナは人として生まれているんです。悪くなったインドを掃除するというのが彼の役割。生まれたのは紀元前5000年(紀元前50世紀)頃とされています。西インドのグジャラート州にドワルカという町があり、「大きな津波が来て町が海に飲み込まれた」という神話が1000~2000年前の書面に残っています。2001年に発見されたドワルカという都市は、1万年ほど前の氷河期に沈んだと見られていますが、インドでは、そこにクリシュナが暮らしていたと考えられています。クリシュナが語ったとされる「ギーター」はヒンドゥー法の哲学の基礎になっています。

宗教の違いは言語の違いと同じ。喧嘩をすることはない

(稲垣) 「バラモン教=ヒンドゥー法」と考えてよいのでしょうか。バラモン教から仏教が生まれたわけですよね?

(よぎ) ヒンドゥー法は数千年前からの「哲学と知恵」のかたまりです。先ほど、クリシュナというのは紀元前50世紀のヴィシュヌという神様の化身だとお話ししましたが、紀元前5世紀に生まれた化身が仏陀(ブッダ)です。仏陀もヴィシュヌの化身であるとされています。ヒンドゥー法に従う王族の出であるシッダールタが人の生き死にを目の当たりにして出家し、厳しい修行とメディテーションの末に悟りを開き、その哲学を民衆に語ります。そして、インドを統一したが多くの人を殺して自分を見失ったアショカ王が仏陀の教えと出会い、仏教を確立するのです。

でも、インド人から見れば、クリシュナと同様に仏陀もヴィシュヌ神の化身であり、仏陀が語ったことはヒンドゥー法そのものです。ですので、一般的なインド人の中では、実は仏教は「別の宗教」ではないのです。仏陀は「インドにあるたくさんのヨーギ(瞑想)の中のひとつ」であり「偉大なヨーギ」という理解です。

(稲垣) ヒンドゥー法の方々にとって、仏教とはヒンドゥー法から生まれたひとつの宗派ということですか?

(よぎ) 仏教は、別の宗派というよりもヒンドゥー法の「流派」ですね。大きな違いはなく、少しだけ考え方が変わるところがあります。仏教のあと、ヒンドゥー法の中から「ジャイナ教」も生まれるのですが、これも同じです。ジャイナ教もまた、「マハウィーラ」という偉大なヨーギ(瞑想)が語った哲学です。

ジャイナ教は、「自分の富を持たず、質素な生活をする」という点に重きを置いています。仏陀も同じことを言っていますね。身体に白い布を巻いて、人からもらったご飯を食べる。それももともとはヒンドゥー法の考え方です。ヒンドゥー法は仏陀を尊敬していますし、瞑想も尊重しています。ヒンドゥー法の人たちにとっては、ジャイナ教のお寺に行くのも仏教のストゥーパを訪れるのも、自身の信仰とは別な場所に行っているという感覚ではありません。ちなみに、ヒンドゥー、仏陀、ジャイナのいずれにおいても有形・無形のどちらを信じることも可能です。

(稲垣) ヒンドゥー法の方々からすると、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という宗教は、どのように見ているのでしょうか?

(よぎ) ヒンドゥー法は、宗教に固執しない「考えの文化」です。まず、ヒンドゥー法はたくさんの神がいて、女神も多い。そして、一人ひとりが、自分が信じたい、拝みたい神を選べるのです。例えば、父や母が信じる神でなくてもいいのです。ですので、かなりの自由度が高いと思います。

キリスト教やイスラム教がインドに伝来したとき、さまざまな理由でたくさんのヒンドゥー法徒がキリスト教またはイスラム教に改宗していきました。インドにいるキリスト教徒やイスラム教徒は、もともとのキリスト教徒でもイスラム教徒でもありません。だから、ヒンドゥー法から改宗したインドのキリスト教徒やイスラム教徒は、改宗前の習慣を継続して基本的に牛や豚を食べない方が多いです。ヒンドゥー法の哲学は自身の中に生きており、その一線は超えられないのです。

(稲垣) 失礼な質問かもしれませんが、もし、よぎさんのご親戚やご家族が、イスラム教やキリスト教に改宗するとなったら、どのように受けとめられますか?

(よぎ) 個人的にはまったく気にしません。現に、私のいとこのひとりは仏教信者です。それはその人の自由。ただ、尋ねるとしたら、「あなたはヒンドゥー法への理解がどれだけあるのか」と聞きたいです。改宗というのはあまりわからないです。私にも、よくキリスト教への改宗の誘いがありますが、私はヒンドゥー法のファミリーの中で生まれましたし、そもそもヒンドゥー法も完全に理解していないので、良し悪しは何もない。だから、「キリスト教に改宗することに、なんの意味もないと思う」と答えます。

中学生のころ、父親はよくキリスト教会にも、イスラム教のモスクにも連れて行ってくれました。大人になってからバイブル(キリスト教の聖書)も読んでみましたし、キリスト教の勉強にも行きました。私の考えとしては、宗教は単なる言語のような「ツール」だと思っています。それ以上でもそれ以下でもありません。宗教が違うと対立があると思われがちなようですが、使っている言語が違うという理由だけで、喧嘩をする必要はありませんよね。

ヒンドゥー法が内包する「神秘性」と「合理性」

(稲垣) 「ヒンドゥー法」と聞いてイメージするのは、高くそびえる山に住んでいて、人知を超えた仙人のような存在のことですが、本当にそういった人はいるのですか?

(よぎ) 今、インドには数名のトップ、つまり瞑想を語る人たち、悟りを開いた人たちがいるといわれています。その方々は、世の中のことについて何を聞かれても答えられるといわれるような方たちです。ヒマラヤで長い期間瞑想していたといわれます。例えば、サドグルという方は悟りを開いているそうで、科学的なことも含みいろいろなことについて、どんな質問をしても答えてくれるといいます。悟りを開いた時に「自分が宇宙とつながった」という言い方をしていますね。

ヒンドゥー法のヨーガには、「チャクラ」という考え方があるのです。人間の体の中には7つに分かれている112のチャクラがあって、そのうち4つは自然に開かれていきます。残り108のチャクラを開くのに、それぞれのメディテーション方法ががあります。一般の人は21のチャクラが開いているそうで、22以上のチャクラが開くと「スーパーヒューマン」といえるような存在になるそうです。先ほどのトップ数名の瞑想は、多くののチャクラが開いた人たちです。つまり脳と宇宙が、人間と宇宙が会話できるようになるといっています。仏陀も同じだったといわれています。「悟りを開く」という言葉自体がそのような意味です。全部が見え、宇宙の存在も見えてくる。

(稲垣) 「宇宙の存在が見える」とはどういうことなのでしょうか。

(よぎ) 「宇宙のあらゆること、自分の魂とつながる」ということだと思います。

(稲垣) とてもにわかには信じられない神秘性を感じますが、その一方で、合理的な側面もあるのがヒンドゥー法の面白いところです。そもそもインドの「カースト制度」というのは、本来、とても合理的にできているという話を聞いたことがあります。

(よぎ) はい、とても合理的です。しかし、そもそも「カースト」という言葉は、インド人ではなく、ポルトガル人がつけたものなんです。「カースト」というのは、区別するためのフレームワークで、インドではもともと「ヴァルナ」と「ジャーティ」と呼ばれていました。ヴァルナは上下の関係がない「職業」、ジャーティは細かく分かれている「役職」のようなもので、上下関係があり、伝統や行事の差があります。このマトリクスで国民を整理し、国全体で必要な職業や役職をマネジメントしていました。

(稲垣) HR業界でいう「ジョブディスクリプション」ですね。

(よぎ) まさにそうです。本当はジョブディスクリプションのような管理手法ですが、「カースト」という名前がつけられて、それが「差別の習慣」というような誤ったかたちで世の中に伝わってしまいました。インドでは、お坊さんの中にもたくさんのジャーティがあります。例えば、「ジョーシ」という名字がついている人たちは、本殿の中で働く人たち。また、日本でも成田山などで火を焚いて法務のようなものをおこないますが、そういったことを人の家でおこなうのも「ジョーシ」という名字の人たちです。私の名字である「プラニク」は、聖典を読み聞かせるという職業です。王様にも、軍人にも、みんなそれぞれのポジションがあるわけです。

名字を聞けば、この人はどういう地位かがすぐにわかります。これは、マネジメントのサイエンスだったと思います。今の企業にも、さまざまな職種に加えて経営陣がいたり、中間のミドルマネジメント層がいたり、さらに一般社員がいたりするわけです。それと同じことなのです。

(稲垣) 「ヴァルナ」と「ジャーティ」は、自分の意思で変更できるのですか?

(よぎ) 遠い昔にはできたのです。先ほどお話しした、神の化身・クリシュナの時代(紀元前50世紀頃)でも、下の階級から王様になった人がいますし、上の階級から下の階級になった人もいます。変更のためのルールもあります。例えば、「違うジャーティ同士の人が結婚するときは、どちらかのジャーティに就く」といったものです。実は、「ヴァルナ」と「ジャーティ」の制度は仏教でもジャイナ教でも受け継がれています。

ただし、長い植民地時代にインドの昔からの知恵と良いところが非難され崩壊し、「ヴァルナ」と「ジャーティ」間の移動ができなくなってしまいました。第二世界大戦前後には、大病などで村の外に住まわされていたアンタッチャブルな人たちが政治家の声掛けによって、一気に仏教に改宗するなど、仏教に対するイメージに偏見が生じた時期もあります。ヒンドゥー法は、哲学であり、経済学であり、医学であり、科学であるのです。だから、ヒンドゥー法を勉強しはじめたら、非常にいろいろなことが開けてくると思います。単なる宗教ではなく、「ヒンドゥー法は人類の哲学および科学」なのです。

インタビューを終えて

よぎさんは、「ヒンドゥー法には宗教独特の難しさがない」とおっしゃっていた。確かに、唯一神の存在を信じる一神教や、厳しい修行のイメージがある仏教と違って、ヒンドゥー法には親近感を覚える。インタビュー後に思い当たったのだが、その理由は、日本の神道のような「生活に根差した八百万神」に近い考えだからではないだろうか。私が小さい頃に読んだかっこいい神話や、主人公が不思議な体験をする昔話などに出てきた日本の神様も、崇高な存在だが、普段の生活の知恵も与えてくれる身近な存在でもある。お話を聞く中で、この神道と同じ感覚を持ったのだと思う。しかし、紀元前10世紀から始まるといわれるヒンドゥー法の奥深さはすさまじいのであろう。ヒンドゥー法を巡る旅も面白そうだ。

さて、2月から始まり計6回にわたって対談した「宗教特集」だが、今回で終了となる。4つの宗教を信じる敬虔な信者の方々から直接話を聞けたことは、大変意義深い体験であった。対談した方々は、それぞれ自分の信じる宗教に真摯に向き合い、プライドを持っていた。私にとっての一番大きな教訓は、「宗教観・価値観を尊重すること」の大切さだ。自分が知らないから、理解ができないから、という理由で他人が大切にしている考えを否定することは、あってはならないことだと思う。

取材協力
よぎ(プラニク・ヨゲンドラ)
1977年生まれ、インド西部出身。プネー州立大学で、国際・労務経済の修士号と同時に情報技術(コンピューター開発)と日本語の学位を取得。以降、国立経営大学で国際経営を学ぶ。1997年と1999年に国費留学生として来日し、2001年から在日IT企業・日系銀行に勤務。システムエンジニア、プロジェクトマネジャー、日本支社長など要職を務める。役所、外務省、企業などで客員講師としても活躍。2012年に帰化し、2017年に「江戸川印度文化センター」(東京都江戸川区東葛西/Edogawa India Culture Center〈EICC〉)を設立。2019年の3月に楽天銀行の企画本部副本部長に就任するが、2019年4月に江戸川区議会議員選挙に出馬し初当選。本稿での呼称「よぎ」「よぎさん」は知人からの愛称。

本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=2124

Pocket