COLUMN

[HRプロ連載記事]第13話:吉本興業所属“アキラ・コンチネンタル・フィーバーさん”から学ぶ、海外で活躍するチャレンジ精神

8.連載記事

私は、4年半前に今後の日本のグローバル化を見据えてインドネシアに進出した。当時、海外で働いた経験はゼロで不安もあったが、叶えたい夢を実現しようという覚悟と、まだ見ぬ世界に飛び込む冒険心で、気持ちは高揚していた。
私と同じくらいの時期にインドネシアにやってきて、夢を現実にしつつある人物がいる。一風変わった肩書だが、アジア版“あなたの街に住みます”プロジェクト、住みますアジア芸人の、アキラ・コンチネンタル・フィーバーさん(通称:アキラ)だ。(※あなたの街に住みますプロジェクト=「笑いの力で地域活性を」をテーマにした吉本興業100周年記念事業)お互いこちらへ来て間もない頃に出会ったのだが、当初から非常に気が合い、プライベートでも付き合いがある仲間の1人であり、刺激を与えあう仲間でもある。彼の今までの心境や活躍を聞くことで、海外でチャレンジする人に大切なものが見えてきた。

ボロボロの状態でのスタート


(稲垣)まず改めてアキラさんがインドネシアに来た経緯を教えてください。

(アキラ)NSCという吉本興業のお笑い養成学校に2010年に入学し、29歳でデビューして日本で活動していました。しかしデビューが遅く、同期も一回り下で、「自分はこれからどうしたらいいんだろう……」といろいろ悩んでいました。そんな時、吉本がアジアでエンターテインメント事業を展開するため、インドネシア・台湾・マレーシア・タイ・ベトナム・フィリピン・ミャンマーに芸人を送り込む「住みますアジア芸人」という企画があると聞いたんです。

世界で勝負するというのがすごく刺激的に感じられて、直感で「これだ!」と思って応募しました。オーディションは7ヵ月続いて、150人の芸人から13人に選ばれ、見事合格したんですが、なぜかしばらく放ったらかしでした(笑)。ですが、ある時、突然召集されて、「いまからすぐに海外行ってくれ!」と言われ、その2週間後にはインドネシアに来ていました。

(稲垣)吉本興業さんって、本当にそんな感じなんですね(笑)。それで、インドネシアに来て、すぐ活躍できたんですか?

(アキラ)いえいえ、全くダメでした。こちらに来た当初は、言葉や文化の壁で精神的にも安定していなくて、そしていわゆる“吉本あるある”ですが、とにかく給料が超安くて(爆笑)。いろいろ大変な上に、こちらへ来て4ヵ月くらい経った頃に、デング熱にかかったんです。はじめは「ちょっと風邪かな」と思ったんですが、次の日には顔全体が腫れ上がって、体もただれて、40度以上の高熱が2日間続きました。全身けいれんを起こして動くこともできず、さらには声も出ないので助けを呼ぶこともできず、このまま僕の芸人人生、いや人生そのものが終わってしまうかなと思いました。

たまたま吉本のメンバーが気付いて、すぐに病院に運んでくれましたが、持ち合わせのお金がなかったので点滴だけしてもらい、そのまま帰宅しました。でもやっぱり1週間後にまた倒れて。デング熱のウイルス感染だけでなく、腸チフスという細菌感染も重なって、下痢と嘔吐が止まらない状態でした。これは本当にしんどかったですね(笑)。

精神的にも、財布的にも、辛かったです。後に、海外保険で診察代が全て戻った時は、それでお腹いっぱい焼肉を食べました。その頃は気持ちも生活も全てつぶれそうだったんですが、吉本の方々やこちらのPANASという友達にも助けられ、食べられない時にご飯を食べさせてもらったり、励ましてもらったりして、何とか乗り越えました。

アジアズ・ゴット・タレントで掴んだ栄光


(稲垣)そうですね、あの時はなかなかの極限状態でしたね……。そして、アキラさんが大きく注目を浴びたのは、何と言っても『アジアズ・ゴット・タレント』のゴールデン・ブザー賞の受賞ですね。これはスーザン・ボイルやポール・ポッツを輩出した「ゴット・タレント」のアジア版で、27ヵ国以上で放送され、視聴者数5億人以上と言われている世界的に有名なオーディション番組です。その中でも特にアキラさんは、アジアで4人だけしか受賞できないゴールデン・ブザー賞を受賞された。あの極限状態から、なぜそのような奇跡が起きたのか。そこに至った経緯を教えてください。

(アキラ)はい。先ほどお話ししたデング熱から何とか回復し、仕事ができる状態にはなりましたが、相変わらず仕事のオファーはあまりありませんでした。一緒に来た僕以外の4人の芸人は仕事が増えてきてましたけどね。で、そんな時に、あるショッピングモールを歩いていたら、「アジアズ・ゴット・タレント参加者募集」という垂れ幕を見かけたんです。そこでまた「これだ!」と思ったんですね。迷わず申し込みました。幸運にもエントリーの締め切りはその日の夜で、オーディションは翌日、というギリギリのタイミングでした。

僕のゼッケン番号は11万といくつだったので、アジア中から膨大な数のエントリーがあったんだと思います。ここから予選を勝ち抜けるのは、たったの5組です。周りからはオーディションを突破するのは相当難しいと言われ続けていたんですが、僕はとにかく「やってやる」という気持ちでした。当日の会場は、ものすごい人と熱気でした。ネタの持ち時間はわずか2~3分で、それをプロデューサーに披露するんですが、僕はこのチャンスを絶対に掴もうと全力でパフォーマンスしました。そうしたらラッキーなことにすごくウケて、僕に興味を持ってくれたプロデューサーから質問攻めにされました。

最後に、「なぜあなたはインドネシアに来たのか」と聞かれたので、「人生を変えに来た」と答えました。「自分を追い込み、力を引き出すために、甘えも許されない環境に行きたかった」と。終わった後、正直僕は、イケる気がしたんです。パフォーマンスがウケたということもありますが、片言のインドネシア語でも何だか気持ちが伝わった気がしたんです。それから3ヵ月くらいしたらマレーシアから予選通過の切符が届きました!本当に感動しました。

(稲垣)そしていよいよ、マレーシアのステージに進出ですね。

(アキラ)ここからは世界中継があります。審査員には、インドネシアの歌姫アングンや、マイケル・ジャクソン、セリーヌ・ディオンのプロデューサーを務めてきたデビット・フォスター、韓国の人気アイドルグループ2PMの元リーダー、ジェイ・パークがいました。皆さん世界的に有名な方々です。

僕は失うものが何もないので、ファイナルでも全力でパフォーマンスをして、自分の気持ちを存分に伝えました。笑いもたくさん起きていたので、自分でもかなり手ごたえは感じていたんですが、その時、会場で想定外のことが起こったんです!オーディエンスみんなが立ち上がってゴールデン・ブザーコールを起こしてくれたんです。会場は異様な盛り上がりに包まれました。その熱気に後押しされたのか、アングンがゴールデン・ブザーを“ドン!”っと押してくれました!彼女はステージに上がってきて僕にハグもしてくれました。デビット・フォスターもジェイ・パークも、すごく褒めてくれました。会場に鳴り響いたゴールデン・ブザーと、舞い散った金の紙吹雪の光景は、一生忘れることはできません。

1にチャレンジ、2にチャレンジ、3にチャレンジ!


(稲垣)その後の生活には変化がありましたか?

(アキラ)それまでとは一変して、オファーの数が格段に増えました。こちらのコメディー番組やコマーシャルに出たり、ショッピングモールやジャパンフェスなどでパフォーマンスをしています。また、『アジアズ・ゴット・タレント』は世界中で放映されていたので、アジア諸国からヨーロッパの国々まで、世界中からコンタクトが来るようになりました。

いま、インドネシアではいろんなところで「アキラ、アキラ」って言ってくれる人が増えて、僕の仕事も人生観もその瞬間から全て変わりました。僕にとってアングンはじめ、あの番組の会社の方々は、本当に人生の恩人です。

(稲垣)アキラさんのように、海外でチャンスを掴むにはどうすればいいんでしょうか。

(アキラ)僕は、チャンスを掴むには、自分からチャンスを探しにいかないとダメだと思うんです。たとえ無理だと言われても、人からバカにされても、自分が実現したい事にどんどんチャレンジすべきだと思います。僕は将来、ハリウッド映画に出たいと思っています。先日、スティーブン・スピルバーグにメールしました。他にも、ハリウッドの監督に「僕の動画を見て欲しい、興味があったら連絡をください、もっとグローバルに活躍したいんだ」と連絡しています。受け身のままでは、人生あっという間に終わってしまうと思います。僕の人生ここからが勝負だと思っているので、そういった努力は当たり前だと思っています。

誰かに頼ってばかりだったり、受け身でいるだけでは、いつまで経っても何も始まらないと思うんですよ。とにかくどんな時も、攻め続ける。切り口は何でもいいと思っています。プライドも何もありません。自分を守るプライドなんていりません。ましてやここは海外。前に進むしかないと思っています。チャンスを掴むコツ、それは、1にチャレンジ、2にチャレンジ、3にチャレンジ!です!

(稲垣)最後に、アキラさんの夢を聞かせてください。

(アキラ)まずは、インドネシアのコメディの文化に、もっと対応できる力を付けたいですね。テレビでもイベントでも、もっとしっかり話の流れを読めるようになって、皆を楽しませられるように頑張りたいです。インドネシアのみんなが喜んでくれるにはどうしたらいいんだろうか、と考え続けています。あとは、いろんな国からオファーをもらえるようになったので、今まで知らなかった国にもたくさん行って、本当に“世界”で活躍したいですね。

もともと僕の考えではインドネシアで活動して実績を作って、どこかのタイミングで逆輸入的に日本で活動をしようと思っていたのですが、次第に気持ちが変わってきていて、いまはインドネシアをはじめ、世界中で活躍したいと考えるようになりました。そして先ほど言ったように、いつかハリウッド映画に出て活躍することがいまの僕の目標です。

(稲垣)アキラさんがインドネシアに来たのは2015年の4月28日でしたね。来てよかったですか。

(アキラ)来てよかったですね。僕の人生は180度変わりました。来るときには正直不安が大きくて、とんでもないギャンブルをしたなと思っていたんですけど、日本を出たらこんな風に思ってもいない人生が広がって、これまでと全く違う人生を送れています。だから僕はあの時の自分に会えるなら、「よくぞ決断した」って声をかけてあげたいですね。自分の直感を信じてよかったと思います。思ったら即行動っていうのは、失敗も多いですけど、その分、掴むチャンスも大きくなるんだと確信しています。

インタビューを終えて

アキラさんと出会うまで、いわゆる「お笑い」の世界には接点がなく、自分の人生や仕事には影響が少ないと思っていたが、改めて彼の考え方や、やっていることを聞くと、ビジネスをする上で、そして充実した人生を送る上で、大切な要素がたくさん詰まっていると思った。やはり、業界は違えども、覚悟を持って本気でチャレンジをしている人から学ぶことは大きい。

この原稿を書いている最中、ヨーロッパへ出張パフォーマンスに出かけている彼から連絡が入った。何とまた、ビッグチャンスとなる出演オファーがあったという。まだ詳細は公にできないようだが、芸人としてではなく、彼のハリウッド進出につながるかも知れないチャンスらしい。アキラさんの熱い覚悟は、確実に夢を現実に近づけている。

取材協力:アキラ・コンチネンタル・フィーバーさん
2010年 吉本興業のお笑い養成所NSCに入学し2011年に吉本興業より芸人としてデビューする。2015年4月に「アジア版 あなたの街に“住みます”プロジェクト」としてインドネシアに移住し、ジャカルタを拠点に活動を開始。芸風はコメディマジックで、2017年10月に、スーザン・ボイルやポール・ポッツを輩出した、イギリスやアメリカのゴット タレントのアジア版、アジアズ・ゴット・タレントで、1シーズンでアジアの中で4人だけ選ばれるゴールデン・ブザー賞を受賞した(27ヵ国で放送 視聴者数 5億人)。現在、そのパフォーマンス動画がフェイスブックで1,900万回再生され、世界各地からオファーが届くようになってきている。コメディマジシャンとして以外にもインドネシアのコマーシャル出演やドラマ出演をした経歴もある。日本での芸名はアキラ・コンチネンタル・フィーバー、海外ではAKIRA KIMURAとして活動。


本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=1714&page=1

Pocket