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[HRプロ連載記事]第8回:海外での危機は「心の交流」で乗り越える

8.連載記事

今回のコラムインタビューのお相手は、公益財団法人 日本漢字能力検定協会で執行役員を務められている、髙木純夫さん。実は、前職で伊藤忠商事に40年間在籍し、テヘラン、北京、蘇州、瀋陽、台北などの海外拠点に通算で20年ほど駐在された経歴をもつ。「グローバル」という言葉が一般化する前から世界で戦ってきた「ザ・商社マン」だ。その体験は壮絶そのもので、山崎豊子さんの『不毛地帯』を彷彿とさせる。今回は、髙木さんが海外で経験された「3つの歴史的事件」についてうかがいつつ、我々海外で活動する日本人が心得ておくべきポイントをまとめた。すでに海外勤務についている方や、出張・駐在でこれから日本を発つ方、そして社員を海外に送る経営者や人事担の方々にもぜひご覧いただきたい。

海外駐在3カ国で遭遇した戦争・内乱・天災の歴史的事件

(稲垣) 前職は伊藤忠商事で、海外経験が長かったとうかがいましたが、改めてご経歴を教えていただけますでしょうか。

(髙木) 1973年に神戸大学経営学部を卒業して、伊藤忠商事大阪本社に入社し、その2年後、中国語研修生として、台湾に着任しました。日中国交正常化が1972年ですから、多くの企業が中国語人材の育成に注力していた頃です。初めての海外生活で緊張していましたが、台湾の温かい方々に囲まれ、充実した海外経験を送ることができました。

その後、本社の化学プラント部門に配属されると、中国はまさに大型プラント導入ブームの真っただなか。私は、中国市場を中心としながら、その後のイラン・台湾での駐在も含め、中東やアジア・大洋州など、幅広い地域を担当しました。

(稲垣) そんななか、「3つの歴史的事件」に遭遇されたとうかがいました。

(髙木) はい。まずひとつ目は「イラン・イラク戦争」です。『海難1890』のタイトルで映画化されたトルコ・日本のエルトゥールル号の友情(※)が話題にもなりました。入社10年目の1983年、私はイランの首都・テヘランに着任しました。当時は、最高指導者・ホメイニ師のもと安定した状態で、仕事は多忙を極めていましたが、1985年に入るとイラン・イラク両国間の戦火は、国境地帯を狙うものから相互の都市攻撃へと拡大の一途をたどりました。

忘れもしません。1985年3月12日、漆黒の夜空にすさまじい衝撃音がとどろき、それを迎え撃つ対空高射砲の閃光が走りました。テヘラン都市部への空爆が始まったのです。その数日後、我々駐在員は、子供を含む家族と手を携えて、着の身着のまま、テヘラン郊外の山岳地帯に避難しました。

ここからは、NHKの番組「プロジェクトX」でも紹介された有名な話ですが、イラクのフセイン大統領が「(この日以降)イラン上空を飛行するすべての飛行機を攻撃対象とする」と宣言した期限ぎりぎりの3月19日の夕刻に、我々はトルコ航空救援機で、一路、トルコのイスタンブールに脱出することができました。

(稲垣) あのとき報道された様子は、今もはっきりと記憶に残っています。あの飛行機の中に、実際におられたのですか!

(髙木) はい。離陸後、機内で、オズデミル機長による「Welcome to Turkey!」とのアナウンスに接した瞬間の安堵感は忘れられません。しかし、我々避難民一同は疲労困憊で、大喝采する間もなくそのまま深い眠りに落ちました。爆撃のすさまじい衝撃は、今でも私にとってトラウマとなっています。

トルコ航空機が、なぜ大きな危険を冒してまで日本人を助けてくれたのかについて、一部の報道では「日本からの経済援助を期待している」というものが見られましたが、それに対し駐日トルコ大使が、「違う! 我々はエルトゥールル号の恩を決して忘れない!」と毅然と発言したことには、大きな感動を覚えました。損得勘定を超えた「心の交流」といえるでしょう。

(稲垣) すさまじいご経験ですね。そして、2つ目は内乱だとか。

(髙木) はい。中国の「天安門事件」です。ご存じかと思いますが、1989年6月4日の事件発生後、中国国内は混乱を極めました。TVからは政府指導者の映像が消え、「デモ煽動分子・密告奨励」一色の報道が続いていました。伊藤忠本社からは帰国命令が下されて、我々がいた北京を含む中国全土の駐在員とその家族は、日本の救援便で成田に帰還しました。

その後、米国が中国を人権侵害国家と認定して、中国への経済活動加担行為を厳しく制限しました。しかし、中国市場最優先方針を取る伊藤忠は、北京への段階的復帰を決定しました。私は約1週間日本に避難した後、所長を含む4名の復帰第一陣のひとりとして、再び北京に舞い戻ったのです。

(稲垣) すごい緊張感のなかでの帰還ですね……。現地の中国人はどんな様子でしたか?

(髙木) 北京に到着して、すぐに北京事務所に復帰を報告すると、中国人スタッフ80名が勢揃いして我々を出迎えてくれました。嵐のような拍手の音が鳴り止まず、我々は肩を抱き合い、再会に涙しました。この時の感動は、今も忘れることはできません。

(稲垣) そのような状況下でしたら、日本メディアも、伊藤忠の挙動にかなり注目していたのではないでしょうか。

(髙木) これは裏話ですが、実は「北京空港に舞い降りれば、内外マスコミの格好の餌食になる。社名が決して出ないよう、万全の注意を払ってほしい」と本社から指示を受けていました。しかし結局、北京空港到着時の模様は、ある大手雑誌に写真入りで大きく報道されてしまいました。満面の笑を浮かべる私の足下に、「伊藤忠運輸倉庫」というロゴが入ったダンボールがしっかりと写っていたのです。箱の中身は、伊藤忠中国室の女性職員が想いを込めて詰めてくれた、単身者用緊急食料でした。

(稲垣) ここまでの話だけでも、胸がいっぱいになります。そして最後は天災だそうですね。

(髙木) はい。3つ目の歴史的事件は、死者約2,400名を数えた「台湾中部大地震」です。1999年9月21日、猛烈な揺れに叩き起こされました。当時、私は台湾伊藤忠の危機管理責任者だったので、通信手段が整わないなか、なんとか駐在員全員の安否を確認し、早朝、本社に一報を入れました。

ちなみに、これが危機管理の模範事例として「日本経済新聞」で報道され、テレビ朝日の討論番組「サンデープロジェクト」からもノウハウについての取材を受けました。

(稲垣) この災害は私も記憶に新しいです。この時の日本の支援が12年後、「東日本大震災」で受けた台湾からの支援につながったと聞いています。

(髙木) そうです。当時から現在にいたっても、実は日本と台湾には正式な外交関係がありません。そんななか、当時東京都知事だった石原慎太郎さんの鶴の一声で、真っ先に救援隊派遣が決定しました。不眠不休の救援活動は、連日、台湾各紙で好意的に報道されていました。任務終了後、日本に帰るべく桃園空港に集結した救援隊は精も根も尽き果てた状態だというのに、整然とした隊列を保っていました。その姿に、空港に居合わせたすべての台湾の方が、ロビーに鳴り響くほど大きな拍手を送りました。加えて、「感謝日本! 感謝日本!」とコールの嵐です。あれは非常に美しい人間愛のひとコマだったと思います。

そして、おっしゃる通り、2011年3月の東日本大震災では、台湾から250億円もの義援金が贈られました。なんとその大半が、民間からの善意として集まったのです。国交という政府間の正式交流はなくとも、日本と台湾の温かい心の交流は揺るぎません。

(※明治時代の1890年9月、オスマントルコ帝国の軍艦・エルトゥールル号が、和歌山県串本沖で座礁、沈没した。乗船者650名のうち多くの尊い人命が犠牲になったが、命からがら岬にたどり着いた69名は、村人の不眠不休の救助のすえ、本国に送り返された。トルコでは、教科書でこの美談を脈々と語りついでいる。)

究極の危機管理対策、「心の交流」

(稲垣) まさに手に汗握るお話でした。実は、私が毎月行き来しているインドネシアも、2014年以降、2度のテロ事や10万人規模のデモ、そして冠水や噴火といった自然災害などの事件が次々に起こっています。我々のような外国人である駐在員や日本本社は、こうした海外での事件に、どう向き合うべきでしょうか。

(髙木) やはり、まずは現地で日本人の安全を管理している大使館との連絡経路を確認することです。現地の大使館は、海外邦人を管理する安全管理義務があります。また、リアルな情報の集まる現地メディアをしっかりと押さえること。当然、現地情勢を把握するためには語学の知識も欠かせません。

もうひとつ大事なのは、会社のトップの判断力です。テヘラン赴任中のイラン・イラク戦争時、日本のTV番組でニュースキャスターの木村太郎さんがおっしゃっていたのですが、日本人というのはみんな、海外で有事に遭遇すると他の会社がどうしているか、というのをすごく気にします。

私たちは空爆の数日後には脱出せざるを得ない状況に陥りましたが、その時人事部はほかの人事部との間で「おたくはもう避難を先決めましたか? 避難する飛行機は飛びましたか? いつ脱出するのですか?」といった連絡するのです。横並び意識というのでしょうか。しかし、そんなことを気にしているうちに脱出できるタイミングを逃してしまいます。

現地から現場のリアルな情報を本社に届け、本社は有益な情報を現地に届け、判断は現地のトップに委ねる。そして、最後の責任は本社がとる。理想は、こういった信頼関係でしょう。

では最後に、これらの体験から私が「常に身につけておくべき必需品」だと考えた「危機管理のカキクケコ」をご紹介しましょう。はじめの4つ「カキクケ」は、それぞれ「金・キー(鍵)・靴・携帯」です。お金・鍵・携帯は想像がつくと思いますが、実は靴も大事なのです。爆撃はそうそうなくとも、地震などの災害でガラスが散乱した道は靴がないとなかなか歩けません。

そして、最後の「コ」は、やはり「心」です。私が遭遇した3つの事件もそうですが、人間が最後に振り絞れる力の源は、人の温かい心です。国籍も言葉もまったく違う人たちでも、心さえ通じ合えれば、トルコのエルトゥールル号事件や天安門事件下の我々のような友情、震災時のエピソードのように、時代を超えた美談が生まれるのです。

(稲垣) なるほど、「心」ですか。私は、CQ(異文化適応力/カルチュラル・インテリジェンス)という観点で研究をしているのですが、CQに大切な性格特性は、「開放性(チャレンジ力や好奇心)」、「外向性(社交性や積極性)」、「利他性(他人の幸福を願う精神)」だといわれています。

(髙木) まさに同感です。自国を離れた日本人は、海外ではマイナーな外国人に過ぎないので、自らいろいろと新しいことに好奇心を持って、積極的に関わっていくことが大切です。

例えば、中国での宴席。中国の場合、宴席というのは仕事を盛り上げるひとつの手段で、アルコール度数の高い白酒を飲んで仲良くなったりします。そういう場に臆さず飛び込んでいって、「心の交流」を図るのです。中東だと宗教的に飲酒しない国が多いので宴席にはお酒が入らないのですが、イラン駐在中にはよくホームパーティーに呼ばれ、コーラやジュースで乾杯して、いろんな話をして盛り上がったりしました。

利他性についても、自分だけが得をしようと思っていたら、やはり関係は長続きしません。日本人は、相手を思いやる優しい心を国民性としてもっています。まずは、こちらから相手におせっかいを焼くくらい積極的に関わるくらいがちょうどいいんだと思います。これから日本にも外国籍人材が増えてくるなかで、困っている外国人を見かけたら、まず自分自身は何ができるかを考えて行動することが大切だと思います。

今、私がミッションとして取り組んでいるのは、「BJTビジネス日本語能力テスト」という日本漢字能力検定協会が主催しているテストを、国内外に普及させることです。そして、日本語や日本文化を身につけようと必死に頑張っている外国の方を見つけたら、我々日本人のほうから積極的に関わっていけるようにしたいものです。

インタビューを終えて

まさに、手に汗握るインタビューだった。ここまで多くの海外の歴史的事件に遭遇している日本人は、そうはいないだろう。髙木さんの助言は、いわゆる危機管理マニュアルでは決して伝えられない厚みがあった。そして、育った環境や文化、言語が違う者同士でも、「心の交流」をすることで、深い信頼関係が築けることを改めて確信した。

取材協力:髙木純夫(たかぎすみお)さん
1949年、兵庫県神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒業。1973年、伊藤忠商事株式会社入社。1987年、伊藤忠商事北京事務所機械部長として北京へ駐在。その後、東京本社の中国化工プロジェクト室長、台湾伊藤忠国際会社副総経理、瀋陽事務所所長などを歴任する。2013年より公益財団法人 日本漢字能力検定協会に勤務し、現在執行役員。


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