COLUMN

2020.03.25

[HRプロ連載記事]第11話:日本人がグローバル化する鍵のひとつは、宗教リテラシーである 宗教リテラシー特集(1)

連載記事

私は、2014年から活動の幅を海外に広げたが、日本から出てみて初めて考えることが多かった。そのうちのひとつが宗教だ。外国の方から、「なぜ日本人は宗教を信じないの?」、「あなたの信仰は仏教ですか?」と聞かれてうまく答えられない自分がいる。私自身、家には仏壇があり、実家に帰ると墓参りをする習慣があるので、仏教徒なのだろうと思うが、純粋な仏教徒かというと自信はない。正月には初詣に行って神様に手を合わせ、七五三も厄払いも安産祈願も、一通りの通過儀礼は神道式に神社で済ませてきた。それに、クリスマスは家族を喜ばせるためにプレゼントとケーキを買う。そういえば、結婚式は妻の希望で海外のチャペルで挙げた。これでも自分は仏教徒なのか、というと「敬虔な」信徒とはおよそいえない。
程度の差こそあれ、多くの外国の方はご自身の信仰する宗教を語ることができる。信仰を持たない人でもそのポリシーを語る。これから日本人がより多くの外国人と接触するうえで、カントリーギャップや言葉だけでなく、宗教も学ぶべきリテラシーなのだろう。決して、宗教を強く信じなければならないという意味ではなく、少なくとも、信仰心を大切にする生き方をする人たちの気持ちを理解できるような情報武装や、自分なりの意見をもっておくことは必要だと思うのだ。
ということで、今月から5カ月にわたり、宗教を特集したい。第一弾は、我が母校、同志社大学神学部の小原教授。一神教の研究者としては日本有数の方であり、ご自身はクリスチャンで、日本基督教学会や日本宗教学会の理事も務められる。今回の対談では宗教という概念からわかりやすく解説していただいた。来月からは、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教と、4つの信仰について詳しい方々との対談を通じて宗教を深堀していく。

宗教とは、人間が人間を超えた存在に対して、何かを想像するということ

(稲垣) 小原先生は、クリスチャンでいらっしゃいますが、キリスト教以外もさまざまな研究をされているとうかがっています。

(小原) 私の専門分野は近現代のキリスト教が中心ですが、ユダヤ教・イスラム教などの一神教研究や、仏教、神道などさまざまな宗教を研究しています。

(稲垣) 先生はいつからクリスチャンになられたのですか?

(小原) 私の実家はキリスト教と全然関係ありませんでしたが、19歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。

(稲垣) 洗礼を受けるきっかけはなんだったのですか。

(小原) きっかけは小学2年生の頃の体験です。学校のすぐ近くで英語を教えてくれる方がいて、通い始めてすぐに英語にのめりこんだんです。その方に、じゃあこれを読んでみてと渡されたのが聖書だった。今考えると、その人は宣教師だったんですね。英語を教えながらキリスト教に導いていくというよくあるパターンなのですが、当時は子供ですから、当然それはわかりませんでした。ただ、英語を通じて異文化に触れさせてくれたり、海外の音楽を聴かせてくれたりしたんです。当時の日本の小学生だと、音楽は流行りのアニメソングや童謡的なものしか聞いたことがないですが、そんな時にビートルズを聞かせてくれて。すごく衝撃を受けました。こんな曲があるのか! といった感じですね。その方を通じて異文化や異世界への扉が開かれたという感覚でした。

その後、野球に没頭したので、その英語教室には通わなくなりましたが、高校の時にロシア文学に傾倒して、トルストイやドストエフスキーなどを濫読したんです。その世界観に引き込まれて、この得体の知れない世界をもっと知りたいと思い、その先にあるキリスト教の世界に再び関心を持つことになりました。それで同志社大学神学部に入学して、ほぼ同時期に洗礼を受けたんです。

(稲垣) いきなり核心を突く話ですが、宗教とはなんでしょうか。

(小原) ひとつは、「人間が人間を超えた存在や世界を信じ、その価値観に従って生きる」ということでしょうか。太古の昔からあるものですけれど、簡単にいうと超越的なものを信じることですね。超越的なものをどのように考えるかについては、いろいろ議論がありますが、少なくとも人間を超えたような存在や世界のことを想像し始めた時、それが宗教の世界の入口だと思うんですよ。それは仏教とかキリスト教とかイスラム教みたいな、経典や教祖がいるようなものだけではなくて、もっと古く、人類の歴史の始まりからあると私は考えます。

ホモサピエンスだけではなくて、ネアンデルタール人も、死者を送り出す葬送儀礼をしていたのではないかといわれています。それは、死ねばすべて終わりという考えではなかったということです。死んだあとにどこか別の世界に行くんじゃないかと考えるのは、他の動物にはみられない、人間特有のものです。例えば親兄弟、仲間のような、今まで親しく一緒に過ごしてきた方が亡くなった時に、それで終わりではなくて、何か魂のようなものがどこか違う世界に行くんじゃないかとか、あるいは違う世界を司るような、何か超越的な存在がいるんじゃないかとか考えたわけです。

また、非常に危機的な状態に陥った時に、人間は祈らざるを得ないんです。例を挙げると、狩猟社会から農耕社会になった時、雨がずっと降らなかったら、一族の存亡に関わりますよね。その時に、海の東西を問わずにおこなっていたのが「雨乞い」という祈願です。それは、具体的に雨を降らせていると信じている対象に、いろいろな犠牲を捧げながら、祈りをささげるわけです。つまり、何かしら自分達から作用をすれば、その反作用としての雨が降るというような、働き掛けをしているわけですよ。今の世界における宗教と比べると原始的に思えるかもしれませんが、こういった素朴な感情、つまり自分を超えた世界を信じたり、超越者のことを考えたりというのが、まずは宗教の始まりだと思います。

宗教を学ぶことは、人が持つ価値観の多様性を理解する道

(稲垣) 例えばイスラム教やヒンドゥー教を信仰する方にお話を聞くと、皆さんすごく素晴らしいことをおっしゃっているし、そういう世の中になったほうがいいなと思う反面、これだけ宗教というものがいろいろとラベリングをされていて、時にはそこでいざこざが起こっているわけです。宗教にこだわりの薄い私は、宗教の矛盾を感じて、少し怖いものとか、特殊なこととか、何かしらの偏見を持ってしまっていると思うのです。

(小原) そのような「怖さ」がどこに起因するかというと、人間はひとつの考え方や信念体系に囚らわれてしまうと、しばしば自己絶対化してしまい、最悪の場合、他者を認めず、そして他者に対して暴力的になる、という歴史的経験に由来するものがあると思うんですよ。日本では、オウム真理教事件以降、宗教は反社会的な犯罪や暴力を引き起こすので危ない、怖いというイメージが生まれましたよね。しかしこれは別に宗教に限らず、政治的イデオロギーであれ、他の考え方であれ、「自分の考え方が正しいんだ」と主張する人が暴走した場合には常に危険です。

確かに人間には、自己絶対化や暴力につながるような闇の部分がある。反対に人間は現状を打開するような大きな勇気や希望を生み出す力も備えている。そういったさまざまな側面に光を当てるのが、宗教なんですよ。ですから、宗教というのは極めて両義的です。その両義性というのは、人間そのものに由来するものなんですよね。つまり、宗教を知るということは人間を知るということです。単純に悪とも善とも割り切れない人間の複雑さを、宗教というレンズを通して、より具体的に、客観的に見ていくことができるのです。宗教を信じる人は、人間をそれぞれのレンズから見ているのです。

(稲垣) 例えば、インドネシアでは、多くの人がイスラム教というレンズを通して、人間を知ろうとしている、ということですね。

(小原) 稲垣さんは、インドネシアでご苦労をされてきたと思いますが、やはりイスラムという宗教を知らないと、インドネシアで経験するいろんなことを的確に理解できない場合があります。日本で積み上げてきた経験と、インドネシアで見聞きする経験との間には、何かしらのギャップがあります。しかし、一旦彼らの行動原理を支えている価値観とか宗教性を理解すると、そのギャップを少し埋めることができます。例えば、「なぜ1日に5回もお祈りをするんだろう?」といった疑問が少しずつ解消していきます。

宗教というのは、人と人との関係をブロックする材料にもなりかねませんが、理解し始めると、それが「ブロック」ではなくて「ブリッジ」する役割を果たしてくれます。国際社会で仕事をしようと思ったとき、ブリッジする力としての宗教に着眼しないと、下手するとそれが障壁になってしまいます。東南アジアでは、仏教もあればイスラム教もありますし、インドまで行けばヒンドゥー教もあります。それぞれの社会を支えている価値観というのは、グローバル社会であっても簡単には変わらないんですよ。どんどん変わっている部分もありますけども、変わらないで社会を支えているような価値観が、一体なんなのかを知ることによって、人と人との信頼関係はできてくると思います。そういった意味で、宗教を学ぶということは、グローバル化の中で人が持つ価値観の多様性を理解する道になると思いますね。

宗教リテラシーは、グローバル社会が加速する現代人が備えるべき免疫システム

(稲垣) インドネシアでは、Pancasila(パンチャシラ)という建国の原則があって、日本語では「多様性の中の統一」という意味です。これは本当に素晴らしい国のスローガンで、さまざまな宗教、文化を認めており、現にインドネシアではイスラム教以外にもあらゆる宗教の信者がいます。しかし、最近はインドネシアでも宗教における問題が起こるようになってきました。世界を見渡しても、宗教だけでなく、国・地域・階層・文化で人をラベリングして、排他的に見る傾向が強まってきているのではないかと思います。今、日本の外国人労働者が166万人にまで増えましたが、恐らくこれからもどんどん増えていくでしょう。我々日本人が、宗教・文化・言葉の違う外国人と良い関係を築いていくことが大切です。この潮流の中で、日本人はどのように異文化と向き合っていくべきなのか、というのが私の関心事です。

(小原) 日本人は、おしなべて、宗教に対して無知といえるかもしれません。おのずとそうなったというよりは、戦後教育の結果でもあります。戦前の日本とは、天皇に対して絶対的ともいえる忠誠を誓う宗教国家だったわけです。それが国民を戦争へ突き進ませたということで、戦後の教育の中からは宗教が徹底排除されました。そういった背景を考えると、老いも若きも学校で宗教を勉強していませんし、日常的にお寺で何かを学ぶといった、昔あったような環境もなくなってきているので、そもそも学ぶことができないんですよ。自分のうちに仏壇があって、お葬式の時には何々宗のお坊さんが来てくれたとか、そこまではわかっていても、では「曹洞宗とはなんですか?」、「浄土真宗とはなんですか?」と聞かれると誰もわからない。そういった状況なんですよね。

何も知らないから結果的に宗教的な偏見を持っていない。この無垢さは、状況が変わると大変危ういものなのです。宗教の基本知識を持っていると、何が怪しくて、何が健全かというセンサーが働くので、自分に魔の手が迫っても、これは危ないと察知できます。しかし、知識がないと、単に自分の心を癒してくれそうなものと感じたら、なびいてしまう。宗教についての基本的な知識を「宗教リテラシー」といいますが、宗教リテラシーがあるということが、ひとつのセキュリティになるわけです。反対に、それがないと、自分自身に忍び寄ってくる危ないものに対しての防壁を持っていないことになります。ある意味で宗教リテラシーというのは、グローバル化が加速する時代において、現代人が備えるべきある種の免疫システムでもあります。もちろん、先述のように、宗教リテラシーは異文化の人たちと信頼関係を築くための鍵にもなります。

映画やアニメを見ることから始めることで、身近に感じられる

(稲垣) 宗教リテラシーの必要性がよくわかりました。では、まったく宗教に無関心で、知識のない人が、その第一歩を踏み出すにはどうすればよいのでしょうか。

(小原) 我々が普段接している映画や漫画にも、実は宗教的な要素は入っています。映画『マトリックス』はその典型です。あの作品は基本的に全部キリスト教の世界観や用語でできていますので、キリスト教の知識があると見方が正反対に変わってくるんですよ。単に未来社会ではなく、例えば、主人公のネオにはメシア的なイメージが想定されていたり、人類の最後のとりで・理想郷としてザイオンが設定されたり、いろいろなキリスト教の仕掛けが、このハリウッド映画には組み込まれています。日本でも、ヒットしている漫画は魅力的な世界観を持っているのですが、それもまったくゼロから作者が考え出したというよりは、文化や宗教の世界観を借りてきていることが少なくありません。

わかりやすい例を挙げると、宮崎駿監督が描くような世界観。日本のアニミズム的な世界観が下地にあります。『となりのトトロ』や『もののけ姫』では、自然と人間の関係が生きいきと描かれています。『千と千尋の神隠し』では、多数の神々が登場していますよね。我々は伝統的な宗教をそれとして学んではいないけれども、アニメや漫画、あるいは映画のようなサブカルチャーを通じて宗教性の末端に触れているんですよ。触れることによって納得し、満足しているので、我々は宗教から離れているわけではないのです。知らず知らずのうちに宗教的世界観からエネルギーをもらっているとさえいえます。ヒットし、人々の心をとらえた映画というものは、多くの場合、非常に豊かな宗教性を含んでいます。見ている人はそれに気づかないこともありますが、でも気づかずしてそこからエネルギーをもらっているんです。

『もののけ姫』の場合には、製鉄技術が始まった時代を描いていますが、それによって森が脅かされ、人間と自然との関係が変わる時期に果たして人間はどのようにして山の生き物達と向き合ったらよいのか、といった問いが、映画を見る者に投げかけられているわけです。そのような問いかけに触れることによって、「山の中にもさまざまな命があるんだな」とか、「木々にも生命が宿っているんだな」といったことを感じて、普段忘れているものに気づくこともできます。

『ポケモン』とか『ドラゴンボール』などのアニメは海外でも広く視聴されていますが、これらも、日本の宗教性を色濃く反映しているといえます。『ドラゴンボール』では、悟空が死んでも、あちらの世界に行って、また特訓して戻ってくるとか、向こうの世界とこちらの世界が存在するとかいったことが当前のように設定されています。あちらの世界には神様がいたり、その神様も複数存在していたり。そのような異世界を大前提にしていても、誰も奇妙だとは思いません。かえって、そういう世界を描くことによって、物語全体の奥行きがグッと増しているわけですよね。単にこの世界にかぎって「強い弱い」、「勝った負けた」、「死んだらお終い」というだけではなく、死んでもなお修行できるとか、ドラゴンボールを7つそろえることによって死者を復活させることができる、とかね。これらは宗教的な世界観をたっぷりと含んでいます。

それから『ポケモン』。これは一部の宗教圏では禁止された例がありますが、やはり日本的な文化特性を含んでいます。ポケモンは、フシギバナのように異なる生物を組み合わせたり、岩石のような物体にも命も与えたり、そこかしこに実に多彩なアニミズム的生命観が見られます。また、ポケモンとトレーナー達との友情も大切なテーマになっていますね。人間と人間以外の生物が友情関係を持つというのは、西洋ではほとんどありません。西洋では、動物は人間のための資源であって、とりわけデカルト以降、動物は機械的なものとして見られてきました。動物はモノであり、せいぜい機械なのだから、とりたててそれを大事に扱う必要はないとうことになります。もちろん、西洋でも、近年は、動物観が大きく変わってきています。

日本の場合には、室町時代の頃から、道具にも命が宿ると信じる文化がありました。「付喪(つくも)神」はその典型で、100年近く、長い間使った道具にはおのずと魂が宿って、それが夜な夜な動き出す、そういった説話を描いた絵巻物『百鬼夜行絵巻』がありますね。道具にも魂が宿るし、いわんや動物達をやで、魂はあります。さらに、鬼とか河童とか、空想的な生き物にも当然命があって、人間とやり取りをするんです。『ポケモン』の場合、この世に存在しないような生き物と人間との間で友情が成立しているわけですが、このようなきわめて日本的な世界観が、世界中で自然に受け入れられているというのも、グローバル化のおもしろい点だと思います。

インタビューを終えて

これまで、宗教とは、自分には深く知る必要がないものだと思っていたし、そもそも理解できない概念だと思っていた。しかし、これは正反対だったようだ。グローバル化が加速していくこれからの社会では、「宗教リテラシー」は必須であるし、その深みには到底到達できないかもしれないが、自分なりに理解・解釈もできる概念であった。このコラムを読んで興味を持っていただいた方は、小原教授の『世界を読み解く「宗教」入門』(日本実業出版社)をおすすめしたい。今までは外国の方々と信仰について話すことを避けてきた自分がいるが、これからはもう少し自分の言葉で話ができるように思う。そのためには必要なことのひとつが、さまざまな宗教観を知ることだ。来月からの対談で、4つの宗教に詳しい方々とその奥深さを感じてみようと思う。

取材協力:小原 克博(こはら かつひろ)さん
1965年、大阪生まれ。1989~91年、マインツ大学、ハイデルベルク大学(ドイツ)に留学。1996年、同志社大学大学院神学研究科博士課程修了。博士(神学)。現在、同志社大学神学部教授、良心学研究センターセンター長。宗教倫理学会会長、日本宗教学会常務理事等を務める。一神教学際研究センター長(2010~15年)、京都・宗教系大学院連合議長(2013~15年)、京都民医連中央病院倫理委員会委員長(2003~09年、2010~18年)、宗教倫理学会 会長(2016~18年)等を歴任。専門はキリスト教思想、宗教倫理学、一神教研究。先端医療、環境問題、性差別などをめぐる倫理的課題や、宗教と政治の関係、および、一神教に焦点を当てた文明論、戦争論に取り組む。単著として『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』(日本実業出版社、2018年)、『一神教とは何か──キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』(平凡社新書、2018年)等、共著にとして『人類の起源、宗教の誕生──ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』(平凡社新書、2019年)等がある。


本コラムは、HRプロで連載中の当社記事を引用しています。
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=2010&page=1

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